■太平洋戦争従軍記  中島平四郎の記録■
(済南陸軍病院に入院)  昭和二〇年四月一日

 入院したことがあった。
 洗濯している最中に、右の胸が痛くなったのである。分隊長に報告すると、さっそく、小隊長命で入室(三月二十九日)し、四月一日に入院となった。

 入院の当日、小隊長は洋車(ヤンチョ)と呼ばれる、中国式人力車を差し回してくれたのであるが、もとより、そんなもので二等兵が病院に乗り付ければ、入院生活は、イジメで悲惨なものになることは、火を見るより明かである。小隊長に固辞したところ、伍長を付き添わしてくれたので、止むを得ず人力車を使わせてもらった。

 病院では、百人くらい入る大部屋での生活が始まった。私の病気は軽い方だったので、入院生活は良い休養になった。

 少尉くらいになると、病院でも個室が与えられている。
 そんな個室組の中に、大阪出身の市バスの運転手がおり、同郷の私を部屋に呼んで、郷里の話に花を咲かせたことがあった。
 その後も、たびたび私を部屋に呼び、キャラメルや茶菓子などで歓待してくれた。しかし、あまり頻繁に個室に出入りすると大部屋の連中ににらまれるので、いくつかは貰って帰り、隣近所のベッドに配らなければならなかった。

 また、小隊長も伍長を通じてたびたび差入れをしてくれており、これも隣近所に配ることを忘れなかった。おかげで、私の周りに入院していた連中は、結構、恵まれていたはずである。

 入院中、一度、”転院”というのがあり、列車で移動したことがあった。
 ある駅(註 徳州であったと思う。済南の北方約一一〇キロメートルの処)で停車したとき、窓から外を眺めていたとき、
「中島ー! 中島ー!」
 と呼ぶ声に、窓から乗り出すと、私には覚えのない兵隊が手を振って、
「ちょっと待っとれ!」
と言って、姿が見えなくなった。

 待つといっても、こちらは列車に乗っているので、汽車が動き出せば待つわけにはいかない。暢気なことを言う奴がいるなと、待っていると、くだんの兵隊は、生卵を五〜六〇個も持ってきて、窓の下から私に向かって差し上げてくれているのである。
 有難く受け取ったが、あれよあれよと言う間に、周りの病人達の間に卵は雲散霧消し、私は2〜3個をやっと腹に収めた。誰か思い出せないが、病人達には有難かった。
 
 (長男記述)
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