■太平洋戦争従軍記  中島平四郎の記録■
(氷の搬出と云う作業)  牡丹江当時

 どの様な指示、命令があったのか殆んど覚えていないが、とにかく一個中隊が、徒歩行進し、黒竜江(アムール川、これはシベリア東部を北流し間宮海峡に流入する)の支流松花江の又の支流牡丹江(小生はスンガリーの支流と思っていたがその通りだった)まで約四・五キロメートルはあったと思う河岸に着いた。
 河幅は二〇〇メートル位あった。河岸は水面まで傾斜し、高低差一〇メートル位あった様だ。そこまでの部隊からの風景など全くおぼえてはないが、只、広い僅かな起伏の連続であった。

 河岸に整列し、小隊長から、
「只今から氷の搬出をする。物件は目の前にある河の氷である。新兵は指示に従い搬出をせい!」
 小生は正直、この様な河でどうするのかととまどったが、古兵は一列になって、俺の後について来いと叫び「ド、ドッ!」と本当に馴れた体のこなしで河岸を下りて行った。

 今から思えば、内地ではちょっとした草やなんとなく自然がその侭川へ入っていると云う体裁が普通であったが、ここは違った。名も知らぬ茅の様な、すすき、ホーキ草みたいな丈の高い草が岸を覆い、その僅かな隙間の径の様な処を左右して水面近くに下りるのだ。古兵は何度も来ているのだろうし、逆に度々来ているので径も出来ていたのだと思われる。

 小生らは古兵の後を行くのだが、大変であった。
 草につかまり、径と云っても幅は五〇〜六〇センチ位、でこぼこで道の角(土塊)でぶつかり辷り転んで(何しろ先に記した様に落差が一〇メートル位ある)やっと下りた。すり傷、草の切り傷、打撲等、大げさに云えば無惨であった。

 何故、この様な一見つまらない様な事を、クドクドと書くかと云えば、古兵は自分の古兵に教わったと云うかやられたと云うかその事を又、相伝的に単純に小生等に強制している事を記しておきたいためだ。(今となっては旧軍の再興もないので、これは寝言の様なものだと思うが・・・只現実の自衛隊で時折、リンチ的なニュースが新聞に載るが、いつの世でも集団生活、閉鎖?された階級社会では有り得る事と思う。)

 さて、本論の氷割りの要領であるが、古兵が作業を見せた。道具は殆んどツルハシでやる。ツルハシで氷を九〇×六〇センチ位にコンコンと溝の様に順次に深く割っていくのである。
 深さ一〇〜一五センチ位になったところでツルハシで溝をこねる様にしたり、氷面を柄の方でトントンと叩いている内に、氷がストンと水に沈み、すぐに浮き上がってきた。それを二・三人でツルハシや棒を使って足元の氷面に引張り上げた。
 うまいものだ。氷の厚さは五〇センチ位もあったか。
 氷を取ったあとの水はきれいなルリ色の様だ。

 古兵は、三人組で今の要領でやれと云った。
 あとになったが、表面に立った途端に辷って転ぶ者が続出した。小生もその一人だが、立つ事に懸命なのにこの作業は大変であった。
 冗談ではなく切り取った氷穴にはまれば先づ助からないだろう。コツかれたり怒鳴られたりでやっている内に足元もしっかりして、何んとなく要領がよくなり作業ははかどった。
 古兵の姿がまわりに居なくなったと思ったら、奴らはスケートを楽しんでいた。スケート靴を用意して来ているのだ。軍隊と云うところはこんなものだ。

 時折轟音がする。河の中央あたりを四トントラックが多分大豆と思うがシートをかけた荷台をふくらませて走って行くのだ。
 これには驚いた。内地でいる時に新聞の写真とか現地帰りの人から聞いたり見たりしたものが、目の前にある。凍結すると河は道路のかわりに利用されると知っていたが、現実であった。

 トラックの通るあたりを古兵等はスケートをやっているのが何んとも平和と云うか、間のびしていると云うか、準戦地という緊迫感が全くない。

 どの位時間が過ぎたのか、引きあげた氷塊がゴロゴロしていた。古兵が帰って来て、今度は氷を鉄道まで引揚げろと命じた。その様な線路は何処にあるのかと思っていると、少し離れた場所に河面からなだらかなスロープの岸があるのだ。

 そん具合で氷も大した労力も不用で引き上げると、なんと無蓋車まで来ているのだ。それに氷塊を積みあげた。
 作業が終わると古兵が、御苦労と珍しく労をねぎらい、「腹がへっただろう、甘味品を配る」とあんパンを二個づつくれた。これはうまかった。煙草を吸ってよしと云う。
 皆(新兵)は無言であったが、小生は何か人心地がついた様な、リラックスした気分であった。

 突然、整列!と命令があり、
「今から訓練に入る。向こうに見える高圧鉄塔まで走って戻って来い。早い奴は良いが遅い奴は使役が待っているぞ、走れ!」

 向こうに見える鉄塔は、丘の起伏の彼方にある直距離にして二キロメートル位はあった。
 何んとなく草むらの中に小径が続いていた。皆は最初は元気に競って走った。起伏が案外大きく、時折、鉄塔が見えなくなったりするが、之も新兵の訓練のためよく使われているのだろうが、つぎつぎとうまくシゴクものだ。

 徒手で走るのでは余り人よりも負けない自信がある。とにかく走って鉄塔に行き早く帰りたかった。
 皆も同様だろうが、だんだんとバテルのもでてくる。歩くのもおれば一休みをするものもいる。それなら古兵も見ていないし途中から引返してもよさそうに思うが、妙に全体が正直だ。何故だろうと思い乍ら鉄塔を仰ぎ見て引返した。

 十番以内位に帰った様だ。「中島二等兵、只今帰りました!」と古兵等が直径三メートル位の焚火をして輪になっているのに向かって怒鳴った。
「ヨシ、寒かったろう、火にあたれ」と古兵の間に入れてくれた。・・・と輪の中の新兵の一人が突然、古兵に蹴られて焚火の中へ倒された。兵は慌わてて立上がり輪の中へ駆けこんだ。
 一人が終ると又一人と同じ様にされる。之れは俺もやられるぞと何んとなくその気になっていた。要領の悪いのは気の毒な位い、服にコゲ目をつけたり火傷もしている様だ。
 そんな事をしている間にも鉄塔から兵が帰ってくる。

 どの位時間がたったか遅く帰って来たのは別に集合している様であった。先にその気になっていたと云ったが、片側にいた古兵が本当に突然、小生を横だきにする様にして焚火へ投げこんだ。
 よく覚えていないが、火の中へ入った事は事実だ。矢張り慌てて夢中で火の中で何回かころんだりもしたと思う。只、早くここを出ねばならんと云う気持ちがいやに先走ってバタバタしながら立上がり、まわりの輪の中へ戻った。
 時間も大分たっていたので焚火はおき(燠)の様になって、めらめらと燃えさかってはいなかった記憶がある。

 一人投げ込むたびに、古兵はわけのわからぬ事を云ってはやしたてるのだ。
「それ!早く出てこい、ヤケドをするぞ!」とか、「もう一度入りたいのか!」とか、遊んでいるのか、訓練しているのか、奴らは鬼の様な連中である。あとからも何人か同じ様な事をされていた。
 正直、小生は大分夕闇にもなり、なんとなくまわりがぼんやりしてきた中で、こんなことで一つの行事の様(訓練ではない!)なものが終ったのかと思った感慨があった様だ。
 それに先程の河岸から河面に下りるときの路と氷を引きあげる時の斜面は、状況判断からしてあまりにも訓練として出来すぎているのである。

 今、回想してこの様なことを書いているが、現場は、避ける事の出来ない馬鹿げた状況であった。
 ともかく、わけのわからぬ内に整列し無蓋車を押しながら、どの位の距離か覚えもないが或る地点に着いた。そこには地下壕があり、そこへ氷塊を入れるのである。古兵の説明によると野菜貯蔵庫で、夏まで鮮度を保てるといっていた。

 この様なことを書くと、自分乍ら平和な時代に当時を、批判的な目で見ていると思うが、実際に何もかもが倦とましく、腹立たしく、情けなかったの一言で終ってしまう出来事が多い。
 バカらしい、アホくさい、と思っても、抵抗できない処が旧軍隊であって、それがそのまま昂じていくと死に致る様な現実になる。小生はそれを見た。見たと云うか、そのリンチの様なものが、日常茶飯的にあった。(戦後いろいろな記事、暴露的な物語り等々で明らかにされた 云々・・・)恐ろしいことである。

 特に小生の居た鉄四が異状であったのか、他の日本全体の部隊でもそうであったのか比較はできないが、僅か一年程の間に得た体験は貴重であったと思う。
 
 (平成4年2月12日受稿)
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