■太平洋戦争従軍記  中島平四郎の記録■
(甘味品と新兵 其の一)

 牡丹江へ入隊して一ヶ月位過ぎた頃と思うが、甘味品を受取りに酒保まで使役が出た。
 どんな物が来るのか楽しみであった。

 食卓・・・ここで、この食卓について少し説明をしておく。
 奥行きが一・五メートル位、幅三・〇メートル位、天板の厚さが一五センチ位、高さ七五センチ位の四本脚で造られた頑丈な木製のものである。
 この「台」と云った方がピッタリのものが、食卓にもなれば、銃の手入れをする作業台になったり、洗濯物をたたむ、手紙を書く、講義を聞く、はたまた、後で書いてもよいが、古年兵の新兵に対するイジメの道具にもなると云う、いわば万能台である。

 食卓に新兵が向い合って着席している処へ、甘味品が配られた。
 それは内地(日本のことをこの様に呼んでいた。)ではとても見る事の出来なかった、森永ミルクキャラメルの三十個入一箱とタバコ二十本入一箱(これはゴールデンバットであった。今も市販されていると思う。)、それに日本酒が一合といったモノである。

 エーッ、こんなモノがあるなんて!とうれしいよりもなつかしかった。
 キャラメルは、あの黄色地にキューピットかエンゼルか知らんが覚えのあるもので、その箱をなでて、しばらく開けなかった。三十個入りと云うのは、特に軍の仕様でつくられたものらしい。

 全員に配給され、古年兵が「食ってもよい」と云ったが、すぐに食べられるシロモノではない。
 隣、近所でも皆同じ思いであったらしい。
 話しの内容は、内地へ送ってやりたい、子供や親が喜ぶだろうにとか(妻帯者も多く、当然、子供もいる)・・・、仲々口にしないのである。
 古年兵はと見ると、奴等はこんな配給など当てにしていない。いくらでも酒保とワタリをつけてあるので、普段から適当に手に入れているのだ。

 古年兵は、小生等が話しだけなのを見て、
「早く食って、飲んでしまえ。点呼も近いゾ!」
といったので、小生もタバコを初めてムセ乍ら吸って見た。うまくもなく、味もわからなかったが、折角これからもくれるのであれば吸おうと思い、楽しみを増やせと云う様な気持ちでやったのが喫煙のキッカケになった。

 そしてタバコで口が辛く、酒が美味であった。
 キャラメルは、手をつけずに手箱(一人一個ずつ幅三五センチ、奥行き三五センチ、高さ四〇センチ位の三段か四段の引出しのついた木製のもので、之に本人の身の廻り品を入れる)にしまった。
 点呼も終わり、久し振りの酒のまわりが心地良かった様に思う。

 さて、そのキャラメルであるが小生等、殆んどのものは二・三日でなくなったが、二人程の者が、キャラメルをダンゴ状に固めてテニスボール位の大きさにして舐めているのである。
 紙に包んで、舐めてはしまっておくと云う、全く子供みたいである。
「キタナイやないか」と注意しても、
「永持ちさせるのにこれが一番ぢゃ」と云う。
 軍隊は、智覚も狂わせるらしい。

(甘味品と新兵 其の二)

 酒も必ず一人ずつくれるが全く呑めない奴は困っていた。
 しかし、そこはうまくしたもので、甘いモノはダメだが酒であればいくらでも欲しいという者がいて、酒とキャラメル(又は羊羹・・・この羊羹は現代のものとはまるきりモノが違う。丈夫な銀紙で四角柱の箱状、三・〇センチ角、長さ一五センチで、開けると砂糖が表面一面に白くかたく塗った様になっていて全体がとても甘い。そういうシロモノで、内地ではサカ立ちしてもお目にかかれなかった。之がキャラメルと交互に配給された)を物々交換するのである。
 タバコは、先に書いたように小生も兵隊で覚えた位だから、殆んど全員が喫っていたと思う。

 S二等兵は、会津から当時でバス行約二・五時間の山峡から召集された指物師であった。
 人柄はよく、田舎の事をいろいろと話していた。ただ酒には目鼻がなく、甘い物は口にしないので酒と換えて呑んでいた。
 一度、
「そんなに呑めば点呼の時は大丈夫か?」
と聞いたが、
「うんだ、大丈夫だよ。」
と云い乍ら、四、五合も呑んだのだろう、フラフラしている内に点呼になった。
「Sよ、お前は俺の横に立て。」
「俺が”イチ”だから、おまえは”ニ”だぞ、わかっとるな。」
「うん、わかっとる。”ニ”といえばいいんだろ。なんかじま、スマンナア。」
と東北弁で返事をするのだ。
 週番士官が来て整列、番号だが、Sは赤面してフラフラするので、小生は片方の手でSの上衣の後を引張って真直に立たせていた。
 Sが無事に”ニ”と言った時はホッとしたものだ。
 士官は来た位置から動かず一人一人を睨みつける様にして終わった。

 Sは字はひらがな位は読めるが、字は殆んど書けないので、よく代筆してやった。そんな事でSは小生に非常に近い存在になった。
「無事に内地に帰れたら、家に来てくれよ。その時は、何も土産なんかいらんが、ダシジャコでもよいから、魚をもって来てくれ。」
と云ったのを思い出す(当時はSの居所の山間地では魚は川魚位で海産物は殆んど手に入らなかった様だ、夢のような話である)。

 そのSとは満州で別れたが、小生が帰還して手紙を出したが(三度程)、返事はない。兄が居ると云っていたがどうなったか、満州に残ったのでシベリヤへ行ったと思うが、気がかりな事だ。四十五年も昔の物語であるが・・・。
 
 (平成3年8月29日受稿)
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