■太平洋戦争従軍記  中島平四郎の記録■
(幹部候補生への道)

 応召兵約一、六〇〇名の内、当時の旧制中学以上の卒業者約四〇名の中から七名が選出された、もちろん小生の内務班では一人である。小生は正直困った事になったと思ったがどうしようにもない。
 班長は、「班の名誉である。努力せよ。」と喜んでいた。
 一〇日程先に学科試験があるので、そのため小生は、作業休みで一人内務班で色々な参考図書を与えられ勉強を強制された。
 班の名誉か知らんが、これはエライことになった。しかし、学科試験だけは合格せんと格好がつかんなあと、やりたくもない勉強をやった。

 学科試験(内容は完全に覚えていない)も無事に終わり、忘れていた頃に班長に呼び出され、
「学科は合格しとるぞ、よくやった、〇日に中隊長殿の面接がある。頑張れ!」と激励された。
 軍隊と云うところは、”ガンバレ”とか”ヨクヤッタ”とか”メイヨ”とかの表現が多い。

 そして、面接の当日になり、班長室でいろんな注意を受け、同時に服装の点検があり、やっと
「行け!」
「中島二等兵、ただ今より中隊長殿の面接試験に行って参ります!」
と大声で怒鳴って班長室を出た。
 一人で別棟にある中隊長室へ行った。
 教えられた部室の前で、隊長付の当番兵に、
「中島二等兵、ただ今、中隊長殿に用があって参りました。」
と静まり返った舎内でわめいた様に思う、やはり、緊張していたのだろう。

 兵は事前に連絡が当然あったのだろう
「ようし、しばらく待て」
と云って隊長室へ入った。扉の上の突出し表示板に、「中隊長室」とあったのを今でも思い出す。
 しばらくして、兵が「入れ!(小声で、「ガンバレよ」と云ってくれた様だ)」と云った。
「中島二等兵入ります!」
「ヨシ、入れ」
と中隊長の声があった。

 余談であるが、中隊長と云う階級は、二等兵からすると「カミサマ」であり「クモのウエ」の人物であると古兵が云っていたし、地方に居る時もその様な話しはなんとなく聞いていた。
 その「クモのウエ」のM大尉が目の前に居るのである。

 大きな机の向こうから
「座れ」
「ハイッ」
と始まって、会社の面接と同じように、氏名生年月日等々聞かれ、「そうであります!」の連発である。殆んどの質問は忘れたが、核心のやりとりはおぼえている。
「中島二等兵は技術徴用で航空本部に居たそうだが、何をしていたのか。」
「建築の技術で、設計、現場監督等しておりました。」
「そうか、ところで中島は学科も合格しておるし、この国家非常の時、職業軍人として国に尽す気はないか?」
と問われた。

 小生はそんな気は毛頭なく、身体もそれ程自信がなかったし(転属後、済南で病を得た)、第一、兵でおれば、その内、召集解除と云う事もあると、これは普段から思っていたので、真正直に、
「私は、職業軍人になる気はありません。」
と答えたものだ。
 M大尉はやや怪訝な顔(した様に思う)で、
「何故か?」
「私は召集解除になれば、建築の技術を生かして国家に報いたいと思っているのであります。」
 思えば矢張りこれは失言?かも知れんが思っていた事をそのまま、恐れもせずに云ったものだ。
 正直「シマッタ!」とは思わなかったが、バカであった。
 M大尉は、スッと立ち上り、
「貴様は国賊ぢゃ!帰れ!」
と大声し、別室へ行ってしまった。
 小生は誰も居ない隊長室で、
「中島二等兵、帰ります!」
と云って部室を出た。当番兵に同じ様な事を云ったが、知ってか知らずか、「よし、御苦労」と云った様に思う。

 内務班に帰るまでの道は、うっとうしかった。
「エライ目にあうぞ」と思い乍ら、班長室へ報告に入った。M大尉から詳細に電話を受けていた班長は、目をむいて怒った。
「性根を直してやる!」とか云って殴られた。
「マ、自分で選んだ道だから仕方ないわい」位に思っていた。
 就寝時、状袋(毛布四枚位をうまく封筒の様に、たたんで封筒の口の様な処から足から入り、身体全体を入れるのだが、馴れるまでは不自由で困ったが、暖かいのだ。封筒に似ているので状袋と云っていた)に入ってからも「国賊か、俺は国賊かなあ?」と仲々寝つかれなかった様に当時を思い出す。

 そんな事があったが、同年兵も毎日が忙しく、誰も聞かないし、古兵も普段通りで別に小生に対して変った素振りはなかった。
 何日か過ぎ、早朝、呼集があって練兵場に出た。
 粉雪が舞い寒かった。痛かった。一面の叢を通り過ぎる時、すぐ近くで三人の兵が二人の上官から特訓を受けているのだ。銃を持って、粉雪まみれになり、ころげ廻っている。
 幹部候補生に合格した者である。激しい訓練を受けている!蹴られ、倒され、とにかく地面を這いずり廻っているのだ。誇張ではない。
 小生は「なんと哀れな、俺であればモタンなあ」と正直思った。選択は誤りなかった様だ。あの時、職業軍人への誘いを断わって良かったと思ったが、何か後味の悪さが残った。卑怯だとは思わないが、矢張り何か厭な気分だった。

 三人は後日、応召兵達が転属する時に、大体、三分割され小生等は済南方面へ(実際は除州(シュイチョウ)を過ぎ、鄭州(チョンチョウ)へ行く予定が、状況が悪く済南に駐屯した様だ)、三分の一は内地防衛部隊で今の韓国へ行ったし、三分の一は満州に残ったのである。三人も同様だろうと思うし、戦後シベリヤへ行った様だ。

 その様な状況になるとは、誰にもわからないし、運がよい、悪いと云うより・・・、何かついているみたいだ、変な云い方だが・・・、これは過ぎて来た事を思い出して始めて云えるのだが・・・書いていて、全部消そうと何度か思うが、結局は余り思い出したくないことの様だ。
 それにしても国賊と罵倒され、屈辱をうけたが、どんなものであったか、わからない。
 三人を哀れと思うだけである。運命である。
 
 (平成3年9月12日受稿)
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