■太平洋戦争従軍記  中島平四郎の記録■
(脱走兵)

「非常呼集!」と怒鳴る声で飛び起きた。
何があったのか、何だろう、満人(満州の住民をこのように呼んでいた)が何かをしかけたのか、と云う思い等々が頭の中をよぎった様に思う。
 内務班で眠い目(真夜中であった)をして整列した。
 班長の申し渡しによれば、他の班で新兵一人が居ない。相当時間、内務班で隊内を捜したが見つからない。
 実は点呼消灯後も不寝番、士官等が内務班の特に新兵の動静を監視、兼様子を巡視しているのである。一人、欠員になっている!これは大変な事だ、即時、班を通じ、小隊長から中隊長へと通達される。・・・で呼集となった。

 暗闇の中、兵舎外へ出て、各班(分隊)ごとに捜索を始めた。寒いのである。星がきらめいていたが叙情的なものではない。
 広大な練兵場の中を、二、三個の懐中電灯をたよりに、
「Mはおるかぁ、M、でてこい」
と呼び乍ら、草むら、立木の上、駐車してある色々な車両(すべて頑丈な布製シートをかぶせてある)の荷台、運転席、車体下部等、さがして歩いた。
 とにかく部隊外へ出ても餓死しかなく、満人の部落へ行けば殺される(行方不明となった実例があった様だ)。Mもその位は知っている筈だ。
 この寒いのにMとか云う奴はどこに居るのか、早く出てこい、逃げきれるものではないのに・・・と云う感じで、小生は腹がたたなかった。

 一晩は無為、とにかく、見つかるまで作業は全部中止でやるのである。
 二日目、日中になって車両の運転席で残飯が見つかったとの情報があり、矢張り隊内に居ると云う事で三日目になり、どこかの班がMを見つけた。運転席を転々としていたようだ。

 このMがその後も一回逃亡した。
 そうして、どう云う因果か、彼を小生が預かる事になったのだ。
 班長が、
「中島二等兵に本日よりMを見させることにする。よく注意しておけ。」
「自分がMをみるのでありますか?」
と反問したが、「命令だ」の一言でMの身柄引受人みたいな事になった。小生は、逃げられては部隊の迷惑になるし大変な事になったと思った。

 二、三日して就寝後、隣りに居るM(彼は自分で云っていたが富山出身の漫才師らしい)に「何故逃げるのか」と聞いて見た。
 Mは即座に、「俺は兵隊はキライだ。性に合わん、何度でも逃げてやる。」と云った言葉が忘れられない。
 一週間ほどMを見ていたが、何処かへ連れて行かれた。

 満州は、准戦地である。
 古兵が云うには、脱走兵は准戦地でも敵前逃亡兵?で、当時の新京市(今の長春市)にある軍法会議に送られ、軍の刑務所に入れられるそうだ。
 当時、その様な扱いになると戸籍に記されることになると云っていた。
 Mはおそらくその経過を辿ったのではないか。
 しかし、その様な重要人を一週間程も、小生によくも預けたものだ・・・経緯はよくわからないが、何れにしてもMは可哀そうな奴だった。
 
 (平成3年9月12日受稿)
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