■太平洋戦争従軍記  中島平四郎の記録■
(牡丹江)

 私が配属されたのは満州鉄道第四連隊(第六六八部隊)である。

(代筆)

 戦争末期の徴兵で召された新兵約一六〇〇名の平均年齢は三〇歳を越えていたと思う。そのうえ私たちの貧相な体格を見て、配属先の古年兵が、
「これじゃいかんわ」
と声に出して言うのを聞いた。
 また、尋常小学校を出た程度の者がほとんどであったため、字が下手くそであった。幸い、私は当時の新兵としては字がうまく”非常に”優秀であった。
 字がうまいことで私はかなり得をしたと思う。

 兵隊は新任地に到着すると、全ての持ち物に墨字で班名と姓名を書かされるのである。そんな時、見かねて仲間の兵隊のものまで沢山書いてやっていたものである。
 こんな便利な人間がいるというのは、すぐに各方面に伝わるものである。時々実科(鉄道兵の作業)免除で班長命令で何か書き物をしていた。

(新兵教育)

 内務班は一六名程度で、新兵教育係の古年兵がついていた。
 新兵の中から班長を選んで班を取り仕切らせ、古年兵は二段ベットの上から眺めているのである。
 古年兵と言うのは、一等兵や上等兵程度で、徴兵経験が二度ほどあるため、兵隊生活の裏道に精通しており、新兵の”教育”がことのほか好きな連中のことである。

 軍隊では、班毎に支給されるものの量は決められているのであるが、ペーチカにくべる石炭の量などは絶対的に少なく、どこの班でも夜になると石炭貯蔵所に盗みに行くのである。班の中から二〜三人で暗黙の当番制になっているのである。
 古年兵達はそれを先刻承知の上で、貯蔵所に待ちかまえており、盗みにやってきた新兵がようやく大きなバケツに石炭を一杯にした頃合を見計らって、
「貴様ら!なにをやっておるのか!」
と、出てきて、殴る蹴るの憂さ晴らしを始めるのである。

 私などは、眼鏡を掛けていたので、いきなり殴られ、眼鏡を暗闇に落として、ものも言わずに地面を這ずり回って探していた。
「貴様!何をしておる!」
「は!眼鏡を探しているのであります!」
 相手の古年兵は、ひとしきり這ずり回って探している私を眺めていて、
「これか?」
「そうであります!ありがとうございます!」
で、空にされたバケツを持って兵舎に帰ったら、今度は、班員から
「なんじゃ、これは!」
といって、殴り飛ばされるのである。
 まったく、軍隊と言うところは、割に合わない仕事であった。

 演習場では、鉄道兵としての訓練が待っていた。
 犬釘を打ち込む訓練は、曲がったり、三回で打ち込めない場合は、鉄の大きなハンマーを高く掲げて、一キロほど先にある鉄道線路まで走って往復する罰を受ける。
 もちろん、誰もまともに罰を受ける気はない。途中のコウリャン畑の中では背丈より高くコウリャンが茂っているので、ハンマーを引きずって走り、畑から抜けでたところでまた掲げて線路にたどり着くのである。しかし、どこで誰に見られているか分からないので、線路の上から、演習場に向かって大声で、
「ただ今から帰ります!!」
と叫ぶのである。なんとも滑稽な姿である。

(腸チフス)

 あるとき、中隊で腸チフスのような伝染病が流行ったことがある。
 検便で引っかかった者や体調を崩した者は、中隊の中の医務室に隔離のために、”入室”させられるのである。

 班の兵舎から、身の回り品を小さな風呂敷で包んで行く姿は、なんとも惨めで哀れに見えたものである。
「**二等兵、ただ今から、入室いたします!」
と、大声で挨拶して行くのである。
 検査に引っかかって、入室の命令を受ければ抵抗はできない。医務室で病人ばかり集められると、感染していない者でも感染して病人にされてしまうと、誰もが感じていたようである。

 隔離が進んでも、いっこうに流行が収まらなかったある朝、数百人の兵隊が練兵場に一列に並ばされ、古年兵の
「糞せい!!」
の号令で、ケツをからげて野糞の一斉放出をさせられたことがあった。古年兵が端から順番に、出た糞をのぞき込んで点検をしていくのである。

 私は、若干腹具合いが良くなかったため、糞が緩かった。見つかって入室させられたのではかなわないので、股倉から手でサッサッと砂をかけて隠していたが、立派で健康な糞をしていた隣の奴が、
「なにをしている!」
と、お節介にとがめてきた。
「だまっとれ!」
と、小さな声だが厳しく押さえつけたところへ、古年兵がやってきた。
「中島!貴様!どうした!」
「は!糞が出ないのであります!」
で、入室は免れた。

(便所)

 使役で他の中隊に手伝いに行ったことがあった。
 なぜか、その中隊では歓待され、天どんをご馳走になった。自分でも驚くほどの空腹で、また、その天どんは格別に美味しかったと記憶している。おかわりも許されていたので、一人で三杯も食べた。中隊に戻って、糞がしたくなって困ってしまった。

 兵舎のトイレは宿舎と渡り廊下でつながった別棟になっている。昼間は、色々仕事があってトイレに行く時間がなく、夜は、へたにトイレで景気のいい糞をするわけには行かないのである。

 なぜなら、そのころ、中国人達の動静も不穏になり、夜のトイレは襲われる可能性があったため、不寝番が二人ついていたのである。
 不寝番に景気のいい糞は聞きとがめられて何を言われるか分からない。また、兵隊がつらくて便槽に手榴弾を投げ込んで自殺する奴もいるため、トイレに行くにもチェックが厳しかった。便槽はつながっているため、手榴弾が爆発すると一連の便器の下から爆風が吹き上がり、道連れにされて死んだ者もいたのである。

 結局、夜は必死で我慢して、翌日の使役で別の中隊に出向いたとき、あらかじめトイレの位置を視認しておき、上等兵に
「糞したいのでありますが?」
「よし、行ってこい!」
で、快便に走って事なきをえたものである。

(赤子)

 終戦後、五体満足で帰還した私を見ても、母親は額の上の傷を見て泣きだした。今でも、額の上の髪の生えているところに、縦に傷が残っている。
 兵隊と言うのは、古年兵達の新兵いびりは黙認されても、天皇陛下の赤子(”せきし”と読む・陛下の子供の意)として、軍隊の中では大切に扱われる側面がある。

 肉体労働の割には与えられる食事の量が少なく感じ始めたころである。ある時、体調を崩して寝込んでいる者が食事にまったく箸をつけないことが続いた。それに気づいた健康な者が、少々盗み食いしたのである。
 古年兵は、毎日の新兵の食事量をチェックして、新兵達の体調を確認するようで、それまで全く食べることができなかった者の食事に食べた痕跡を見つけ、即座に、盗み食いした者がいることを確信したらしい。
「整列!」
の号令が飛んだ。

 私は、班長をしていたので、通路の先頭に並んだところを、問答無用で、天秤棒の脳天唐竹割りが襲ってきた。私は、倒れて額は血だらけになり、出血は止まらなかった。古年兵は、勢いで班員を四人ほど叩きつけていたが、私の様子にようやく気づいて、必死に介抱し始めたが、血は止まらなかった。

 古年兵が、必死に介抱したのには訳があり、すぐに就寝の点呼がある時間だったので、上官である准尉がもうすぐやって来るのであった。
 ある程度のリンチは黙認されても、出血が止まらないほど痛めつけたことがわかると、陛下の赤子を傷つけたとあって、古年兵も罰を免れない。

 点呼の時には血は止まっていたが、古年兵達は、私を列の一番後ろに並ばせた。
「一六名、異常ありません!」
 准尉は、班長としていつも先頭にいるはずの私がいないので、不信をいだき、
「中島!前へ出ろ!」
 私の様子を見た准尉は、一目で異常な傷に気が付き、問いただしてきた。
「机の角で打ったのであります!」
「貴様がそんな間抜けだとは思わん!その傷はどうしたのか!」
と、さらに詰問されたが、今更、前言を翻すわけにはいかない。
「机の角で打ったのであります!」
の一点張りで返答し、押し問答が何度か続いた。

 そのうち、古年兵が見かねて、正直に事の顛末を報告したところ、
「貴様ら!早く医務室へ連れて行かんか!」
ということになった。
 これには、正直言っていらんお節介だと思ったが、命令には従わなければならない。
 医務室は兵舎とは別棟になっているため、冬の満州の夜中を外套を着て行かなければならない。
 付き添ってくれた古年兵は、道すがら何度も何度も謝ってくれたが、私の方はそんなことはどうでもよく、外気に触れる傷口が凍てつきそうだったのである。せっかく止血できていたのだから、そのままそっと寝かしてくれる方がよっぽどましだった。
 
 (長男記述)
前のページへ  目次へ  次のページへ
■太平洋戦争従軍記  中島平四郎の記録■