■太平洋戦争従軍記  中島平四郎の記録■
(釜山から牡丹江までの移動)
    昭和十九年九月二十×日〜九月二十四日

 小生は、朝鮮についてから移動する途次の風景を目に焼きつけ、出来る限り記憶しておこうと思った。若し生きて帰れたならば、いい思い出になると気楽な事を考えていた(実際その様になった)。

 沿線の山は木がなく禿山ばかりだった。
 大邸あたりの民家は土壁で日本風の藁葦の家で平家が多く、地面に這いつくばっている感じだ。家の軒先は藁を日本の民家のように切り揃えると云う事はなく自然に垂れ下がっていた。
 そんな事をやや専門的な目で見ていた。途中、食事排泄はどうしたか思い出せない。

 やや暗くなって京城(ソウル)に着いた。漢江をわたる時、別の鉄橋の形、それに川面が美しかった。
 京城で下車したおぼえがないから車中泊した事になるが、列車は停車した。小生は朝鮮に駐留するのか、このまま平壌あたりか新義州方面へ行くのかと思ったりした。
 時間の経過も判然としないが、列車が動き出した。後戻りで、又漢江の鉄橋を渡り、しばらく戻ったが、今度はそのまま北上しだした。山中に入りやがて元山と云う駅名を確認した。

 正直、大変な処へ来ているぞと思った。丁度、時次郎君(次弟)の在任地平壌と伊三郎君(末弟)の任地襄陽の中間地点である。このまま南下すれば伊三郎君が居る処へ行けるのになあとその様な感慨があった。兄弟三人が外地で最短距離に居るのだ。両君は勿論なにも知らないが、小生だけ何かいらだちをおぼえていた。

 元山を通り、どのあたりか海岸沿いを走り、今でもあざやかに、日本海の青さと松の緑の美しかった事を思い出す。
 会寧に着いた。
 秀吉時代、朝鮮征伐?(今流で云えば帝国主義か)の訳のわからない名分をうたい、加藤清正と称する武将が、よくもこんな隔地まで来たものだと思った。俗に清正の虎退治なる有名?な武勇伝があった。今でも歴史画なぞにその勇ましい清正がある。
 会寧か!地図では知っていたが・・・・列車は走った。

 図門についた。列車は何度となく鉄橋を渡る。
 小生は、これは今、豆満江(とまんこう)を渡っている!国境を越えつつある!(朝鮮、当時は日本、そして満州帝国の間の河)この時はすこし感慨があった。
 川の流れは速く、少しとがった様な山々の脈が、寒々とした白っぽい空の下に霧めいた白いもののなかで、うす黒く屹立していた。あの向こうはソ連だ!違いないと思うが、それにしても何んと遠くへ来たものだ、と誇張ではないが、思った。

 列車内の同僚のことなど全然おぼえていないし、小生は変な話しだが、一人で興奮していたのかも知れない。今時、国境を越えるとか、周囲の状況がどうだったと云う事は、航空機の時代では、その様な現象は皆無だろうが、大味な現代だ。
 先に書いた様に今でも豆満江周辺の風景は割合にしっかり思い出せる。

 どの位の時間の経過があったか、着いたのは牡丹江であった(駅名を見た。しっかりと!)。
 下車、と同時に隊列を整え、やや家並の中を行進し、荒涼とした広野の中にある鉄道第四連隊に着いた(駅から五キロメートル位あったと思う)。
 つらい、しんどい生活が始まるのを誰が予測したか。
 
 (平成3年12月17日受稿)
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