■太平洋戦争従軍記 中島平四郎の記録■ |
(下関出港) 昭和十九年九月二十日 関釜連絡船に乗船(船名は昆崙丸であったか?後にアメリカの潜水艦の魚雷攻撃により沈没した)、朝鮮海峡を渡った。 日中でないと敵国の潜水艦の攻撃を受けると云う位、制海権も制空権も大分、怪しくなっていた様だ。一般人と同船と云うのも矢張り船舶も不足していたのではないかと思う。 軍の機密保持(兵員の移動)も充分に出来ていない。只、船室の前半分と前甲板は兵員用であった様だ。暖かい日差しであったので、小生等、大勢のものは甲板に出て座ったり中には寝転ぶ奴も居た。 今から思えば、なんともしまりのない兵隊であったが、別に上官からの注意もなかった。 皆が無言で遠ざかって行く陸地(九州・・・・内地)を眺めていた。 そのうちに誰かが、 ^あ、あ、あの山も、この川も、赤い勇士の血がにじむ・・・・ と当時流行した「暁に祈る」を歌いだした。それが合唱となり、何度も繰返した。 途中、駆逐艦らしき船がどこからか来て、しばらく併走していたがやがて見えなくなった。海は静かだし、天気も良く、本当に之から先の生活の激変など思いも及ばなかった。夕暮が近く朝鮮の陸地が何故かきらきらと輝いて美しく思えた記憶がある。 釜山港に入り、隊列を組み街を行進し、やや山手の小学校に入った。周囲は低い丘であった。そこで泊ったが判然した状況はおぼえていない。 |
(平成3年12月17日受稿) |
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