■太平洋戦争従軍記  中島平四郎の記録■
(部隊を出発)      昭和十九年九月一七日

 九月一七日、千葉を出発した。

 行先はわからない。出動の命令もない。只、出発した様に思う。武装もない。軍服に、帯剣もない(帯剣と云うのは銃剣をもっているということ)、それに水筒もなかった、かわりに竹筒に水が入ったものが支給された。何んとも哀れな兵隊である。
 軍服を着て、銃はなし、水筒(正規ではアルミ製)は、径一〇センチ位の青竹の製品、この様ないでたちの兵隊が、千葉駅から、いわゆる軍用列車に乗った。

 当初は北上した、小生は北海道へ行くのか?と思ったが、宇都宮あたりで南下を始めた。軍用列車という事で、窓はすべてカーテンが下ろされ、外を見るすべもないが、小生は輸送指揮官の目をぬすんで、カーテンの片隅をあけ、外部を見て、現在地を確認した。
 東京を通り、東海道本線を西下した。走行中、なぜか窓のカーテンは開けてしまっていた様だ。閉めろと云う指示もなかったみたいだ。通過する我々の列車に対して駅名は忘れたが、沿線等で日の丸の小旗を振る人々を見たが、どうして知ったのか不思議だった。

 やがて謎解きの様だが、輸送指揮官とか其の他の兵が各車両を廻って来て、
「貴様ら兵の中に通過する駅に煙草の箱の中にこの列車の部隊名等を書いて投げている奴が居る。スパイ行動まがいのことをするな。見つけ次第厳重な処置をとる。」と注意があった。
 成る程それで、沿線にそんな風景が見られたのかと思ったが、その箱を拾った人が、次々と当時はそれ程普及していなかった電話、噂さ話しで、列車より早く情報が伝わったのだろう。何かおそろしい出来事であった。

 大阪が近づくにつれて、小生は大阪城が見えるだろう、見おさめになるかも知れんと思い、窓より地形を確かめていたが、淀川も渡らず、六甲山が近づいて来たので、「これは貨物線を通ったな」と気がついた。
 夜半に下関についた。
 
 (平成3年10月15日受稿)
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