■太平洋戦争従軍記 中島平四郎の記録■ |
(応召、入隊日、その前日) 昭和十九年九月 千葉東部八十六部隊に入隊が決って、その前夜、家の都合でキクエ姉が付きそって千葉市まできてくれた。 大阪から千葉までの汽車中は殆んど記憶にないが、千葉市内の全くおぼえていない旅館の一室で明日の入隊を待った。思い出すが、一部屋と云っても大勢の応召者とその家族で部屋の建具などは、すべてはずされ、大部屋の様になっていたと思う。その部屋らしきスペースの中で、それぞれ別れを皆、惜しんでいた。 キクエ姉と何を話したのか思い出せない。 入隊日、近くの八十六部隊で点呼、本人の確認をうけ、兵隊になった! 九月の下旬ともなれば夕闇は早い。点呼の後、 「これが家族との最後の別れになるかも知れんぞ、〇時〇分までの間に家族に会ってこい」 と言われて隊外へ出た。 小生のその時の状況を思い出すと、矢鱈と人がいた。中空に何か架橋の様なものがうす暗い処に横切っていた様だったし、地形がいやに起伏があった。 そんな中で限られた時間にキクエ姉を無言で捜した。 その様な連中が多かったが、時間切れが近づくと、気がせいて、つい「大阪の中島はどこか!キクエ姉はどこか!」と呼んだ。 みんなが、その様に呼ぶと同じ様に家族の方も、息子、夫など求める声が交錯して、混乱した。 小説じみた表現になるが、姉がいた。 手を握り合ったと思う。 「父、母に元気でやるから、みんなも元気でな!」 と涙もあった様に思う。暗闇の中で騒がしかったみたいだ。 よく世間でいう今生の別れと云う浪速節的な雑然さがあった。 隊に帰り、色々な注意があり、一八〇度ひっくり返した別世界に夢中で動き廻った。廻ったと云うより引きずり廻された。 衣料品の支給(襦袢・・・じゅばん。袴下・・・こした。軍足・・・ぐんそく。そして軍服の上・下。軍帽、等々)、あっと云う間に兵隊に(格好だけ)なってしまった。はじめての軍隊の夕食はどんな物であったか全然おぼえていない。 夜、応召兵以外の新兵が、古兵にベッドの上に殴り倒されていたのを今でも判然とおぼえている。恐ろしい処だと思い、かなわない事だが、外地へ行った方が「マシ」と違うか等と思ったりした。 翌日だったか忘れたが、改めて、出身地、氏名、親族等、聞かれ、何かあるなと云う気持ちをもった。 足かけ四日位千葉に居たが、三種混合の注射を胸にブチ込まれたり、ガサガサした雰囲気の中で時間が過ぎていった様だ。正直、千葉を出発するまでの間は軍隊内は騒がしく、我々に対しては、妙な暴力的なものはなにもなかった。 |
(平成3年10月15日受稿) |
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