■太平洋戦争従軍記  中島平四郎の記録■
(徴用期間)  昭和14年8月ごろ

 旧制中学の今宮職工学校の建築科を卒業後、すぐに陸軍航空本部に国民徴用令により技術徴用され東京で下宿生活を送っていた。

 トイレは、高等官用、判任官用、雇人用の三種類があった。徴用された人間はサーベルの帯刀が許される判任官の身分があったので、判任官用を使えるのであるが、一度、高等官用のトイレはどんなに違うの知りたかったので、あたりに人気のないのを見計らって入って見た事があった。
 判任官用と清潔さの点でも全く変わらなかったのに拍子抜けした記憶がある。

 私が、徴用されていた航空本部は、陸軍参謀本部と向い合わせの高台にあり、昼休みなどに参謀本部の入口の様子を眺めていたものである。
 参謀本部の衛兵は可哀そうであった。参謀本部の衛兵は、伍長級の兵隊が担当しているのであるが、人通りが多い上に、最高級の軍人ばかりが通るため、捧げ銃の敬礼をしょっちゅうしていなくてはならないのである。
 軍隊では欠礼することは許されないのである。
 
(応召までの期間)  昭和17年ごろ

 戦時中は、在郷軍人会の点呼がたびたび行われていた。
 点呼があるときには勲記章などを着けて行かなければならないので、徴用でもらった記章の略章を着けて行った。点呼の際、将校が私の目の前に来たとき、いきなり、
「なんじゃ、これは?」
と見つけられ、徴用のいきさつを説明したところ、全員の前で、一歩前に出るように命じられ、
「若いのに、既にお国のために尽くしている、立派な者がおる」
 と言って紹介され、気恥ずかしい思いをした経験がある。
 
 (長男記述)
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