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ルワンダ難民写真集
ルワンダ共和国Republic of Rwanda
コンゴ民主共和国 ザイール共和国
2004年9月記述
■1994年10月、ルワンダ難民が流れ込んだザイール共和国のゴマ市に行ったときの写真です。
ゴマ市はコニーデ型の美しいニイラゴンゴ火山が眺められるキブ湖畔に位置する、風光明媚な避暑地として発展してきた町です。
1994年7月頃には難民キャンプは衛生状態が悪く、コレラの蔓延による死者が放置されている様子が報道されていましたが、10月には相当状況は改善されているようでした。人々は淡々と生活していました。生活と言っても、テント生活であり、救援物資の配給を受けたり、給水所とテントの間をバケツやタンクを持って往復したりと尋常なものではありませんが、以前の報道のような地獄ではなくなっているようでした。
各国のNGOに混じって自衛隊も難民の救援活動をしていました。
■ザイールのゴマ市郊外に広がる難民キャンプ
標高1500m程度の地域にあるため、アフリカといえども寒々としていました。テントの広がる区域は樹木が伐採されています。樹木は、テントの骨組みに使われたり、炊事や暖をとるための燃料として使われるため、森が侵食されていくことが懸念されていました。建設現場などで使われているいわゆる「ブルーシート」が使われており、中には「UNHCR」と記されたものがありました。「UNHCR」とは国連難民高等弁務官事務所の略称です。
■世界の色々な団体による援助活動が定着しつつあるので、人々の様子は落ち着いているように見えました。主要道路は援助物資を頭に乗せて運ぶ人々の姿が絶えませんでした。
■大きなキャンプ地には広場が形成され、元の集落や親戚縁者などの社会集団の単位で集会をしたりするような秩序も生まれているようでした。
■道路沿いのテントでは小さな商売も始まっているようでした。
■国連が設置した大規模な給水所の様子
地形の高低差を利用して給水所が設営されていました。上の高いところの段に置かれた大きな貯水タンクから下の広場の給水栓に太いホースが何本も伸びていました。給水栓には子どもたちの姿が圧倒的に多かった。
■ゴマ市より北方の難民キャンプ
山の中の集落の近くにも小さな難民キャンプが形成されていました。学校の立派な校舎も難民達が占拠しているようでした。「ジョンバ」や「ルツル」や「カタレ」や「ルガリ」という地名がありました。
■日本の自衛隊による難民救援活動
1994年10月2日、ケニヤのナイロビ空港からゴマ空港へ陸上自衛隊の第一陣に同行しました。ナイロビ空港には、愛知県小牧を基地とする航空自衛隊のC-130H輸送機3機が派遣されていました。ナイロビ空港では雲が低く薄暗い雰囲気で緊張感も高まっていましたが、ゴマ空港に到着するやいなや、大勢の日本人報道関係者に取り囲まれ、困窮する難民のアフリカの地でありながら日本のマスコミとの接触がゴマへの第一歩という日常的空気感にあきれました。
■ゴマ空港と空港敷地内に陣取る日本のマスコミ関係者
陸上自衛隊第1陣到着の記事を日本に送っているようでした。このころになるとインマルサット(国際移動体通信)の機器もアタッシュケース程度の大きさのものが普及していました。
■キブ湖畔の浄水基地
1日1200立方メートルの水を難民やゴマ市民に供給していました。「UN」と大書された12トントレーラーはフレキシブルなタンクを荷台に積んでいました。
■陸上自衛隊の宿営地
宿営地から見えるニイラゴンゴ山が印象的でした。この山は2002年1月に噴火してゴマ市街を溶岩で埋めてしまったそうです。
■国境
ザイールとルワンダの国境に行ってみた。両国を結ぶ道路は舗装されていない土の道でした。国境と言えば、鉄条網の柵を張ったアメリカ映画によく出てくるメキシコとの国境をイメージしていましたが、ザイールの検問所では道路上の赤白に塗り分けられた遮断機だけが彼我を分けていることを示していました。道路の左右に広がる原野には国境線を示すものは何もない。ルワンダ側の遮断機が彼方に見え、その間は空白の国境帯になるのだろうか。その国境帯の路面を見て驚いた。小銃やピストルの弾丸が一面に散乱している。歩くとチャリチャリと音がして、弾丸を踏まずに歩くことが難しい。ルワンダから越境しようとする難民たちには武装している者たちも大勢いたそうで、ザイール側の検問所で武装解除される前の国境帯で武器を投げ捨てていったという説明がありました。銃弾は未使用なので、暴発の恐れがあるので危険極まりないが、ザイール兵たちは全く意に介さない様子でした。
ルワンダ難民について
このホームページでルワンダ難民というのは、1994年4月頃から大量に発生したフツ族を中心とする難民を指しています。
しかし、ルワンダでは1962年に独立してからというもの、国内で国民が安寧として暮らしていける状態にはなっていないようです。
たとえば、1962年の独立直後から少数派のツチ族が難民として周辺国に流出していました。
独立以前の植民地時代には、宗主国のドイツやベルギーは少数派ツチ族を重用して植民地支配のために利用していたといわれています。
独立以降は、人口で多数を占めるフツ族が中心となり、報復を恐れたツチ族が難民となって周辺国に流出する傾向が続いていました。
1990年9月、ウガンダ共和国で難民生活を送っていたツチ族が中心となって組織したルワンダ愛国戦線がルワンダに進攻しました。
ツチ族(ルワンダ愛国戦線)のこの進攻で、フツ族は国内の少数派ツチ族と融和派フツ族を大量(百万人ともいわれる)に虐殺しました。
そして、フツ族は進攻してきたツチ族の報復を恐れ、難民となって周辺国になだれ込みました。
1994年4月から7月までに200万人を超える難民が周辺国に流出し、特にザイール共和国のゴマ市には100万人を超える難民がいました。
フツ族ツチ族と虐待する側とされる側が度々入れ替わっている。今回の虐殺の悲惨さは、ラジオというメディアを通じて一般人の恐怖心をあおったことで、国中が集団催眠にかかったように一般人による無差別の殺戮が行われたことである。そして、その殺戮を行った側は報復に怯えて、国外に逃げ出していったということである。恐怖が連鎖する無限地獄が現出したとしか言いようがない。
ルワンダ共和国の概要
面 積
人 口
首 都
人 種
言 語
宗 教
一人当たりGNP
2.47万km2(四国の約1.4倍)
850万人(2000年)
キガリ
フツ族(85%)、ツチ族(14%)、トゥワ族(1%)
仏語、キニアルワンダ語、英語
カトリック45%、伝統的宗教45%、
220ドル(2001年)
■略史
17世紀
1889年
1961年
1962年
1973年
1990年
1993年
1994年
1994年
2000年
2000年
2003年
ツチ族によるルワンダ王国建国
ドイツ保護領 (第一次大戦後はベルギーの信託統治領)
王政に関する国民投票(共和制樹立を承認)議会がカイバンダを大統領に選出
ベルギーより独立
クーデター(ハビヤリマナ少将が大統領就任)
10月ルワンダ愛国戦線(RPF)による北部侵攻
8月アルーシャ和平合意
4月ハビヤリマナ大統領暗殺事件発生をきっかけに「ルワンダ大虐殺」発生(〜94年6月)
7月ルワンダ愛国戦線(RPF)が全土を完全制圧、(ビジムング大統領、カガメ副大統領就任)
3月ビジムング大統領辞任
4月カガメ副大統領が大統領に就任
8月大統領選挙でカガメ大統領再選
■「コンゴ」という名
小学校中学校の社会科で習ったその国の名は「コンゴ」だった。私が行った時のその国の名は「ザイール」と呼ばれていた。HPを作っているいまその国の名は「コンゴ」である。
コンゴのイメージは、アフリカのど真ん中、赤道直下の大熱帯雨林、鬱蒼としたジャングルから流れ出す巨大なコンゴ川流域を包み込む。希少金属を大量に埋蔵するが故に東西欧米列強が陰に陽に影響力を行使しようとしてきた地域といった感じ。
コンゴ民主共和国の概要 (旧ザイール共和国の概要
面積
人口
首都
人種
言語
宗教
一人当たりGNI
通貨
ザイール川
226.7万km2(日本の6倍)
5,340万人(2001年)
キンシャサ(Kinshasa)
バンツー系、ナイル系等
フランス語(公用語)、キコンゴ語、チルバ語、リンガラ語、スワヒリ語
カトリックを中心としたキリスト教(85%)、イスラム教(10%)、その他伝統宗教(5%)
107ドル(2001年)
コンゴー・フラン(FC)
世界で8番目に長い川 (ナイル川、アマゾン川、揚子江、ミシシッピ川、オビ川、エニセイ川、黄河、ザイール川)
■略史
1908年
1960年
1967年
1971年
1997年
ベルギー領
コンゴ共和国独立
コンゴ民主共和国に国名変更
ザイール共和国に国名変更
コンゴ民主共和国に国名変更
■「ウガンダ」という国の印象
ウガンダという国名をはじめて聞いたのは、アミンという大統領の名と一緒だった。クーデターで政権に就いたアミンは、気に入らない者を拷問の末になぶり殺し、その犠牲者を川に投げ捨てているという報道であった。後ろ手に縛られ腐敗し膨張した死体が周辺国の水辺に漂着するというものであった。
次に、ウガンダという国名を聞いたのは、やはりアミン大統領がからんだイスラエル航空機ハイジャックと一緒だった。1976年6月、パリ行きのエールフランス139便がテルアビブを離陸後、PFLPと旧西ドイツのテロリストに乗っ取られ、ウガンダのエンテベ空港に強制着陸させられた。ユダヤ人乗客だけを人質にエンテベ空港にあるエールフランス機は、アミン大統領のウガンダ兵によって警護されていた。テロリスト達の要求を拒否したイスラエル政府は、3機の大型輸送機で奇襲部隊を送り込み、ウガンダ兵とテロリストを殺害し、人質を救出した。この「サンダーボルト」救出作戦で死亡したのは、テロリスト7人、ウガンダ兵45人、イスラエル兵1人、人質1人だそうだ。
作戦成功と同時に世界中の映画会社が映画化に着手し、1976年12月にはワーナーブラザース映画会社が「エンテベの勝利」を公開した。
戦死した1人のイスラエル兵はヨナタン・ネタニヤフといい、1996年にイスラエル首相となるベンヤミン・ネタニヤフの兄であった。ベンヤミン自身も奇襲作戦に参加していたということである。
ウガンダ共和国の概要
面積
人口
首都
住民
言語
宗教
一人当たりGNI
24.1万km2(ほぼ本州大)(陸地面積19.7万km2)
2,340万人(2002年)
カンパラ
バガンダ族、ランゴ族、アチョリ族等
英語、ルガンダ語、スワヒリ語
キリスト教(6割)、伝統宗教(3割)、イスラム教(1割)
260米ドル(2001年、世銀)
■略史
1962年
1963年
1966年
1971年
1979年
1979年
1980年
1985年
1986年
1996年
2001年
独立(旧宗主国 英国)
共和制移行
オボテ首相によるクーデター(オボテ大統領)
アミン少将によるクーデター(アミン大統領)
アミン失脚(ルレ大統領)
ルレ失脚(ビナイサ大統領)
オボテ大統領復帰
オケロ将軍によるクーデター
ムセヴェニによるクーデター、ムセヴェニ大統領就任
大統領・国会議員選挙。ムセヴェニ大統領再選。
ムセヴェニ大統領再選(3月)
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