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ドミニカ共和国写真集
ドミニカ共和国 Dominican Republic 
2004年10月記
■1986年6月から1990年3月まで約3年間住みました。
そのころのドミニカ共和国はコロンブスの新大陸発見500周年を大きな区切りとして、将来への発展のきっかけにする気運がみなぎっていました。バラゲール大統領は高齢で目が不自由にもかかわらず、精力的に選挙キャンペーンをこなしており、観光客誘致のための施策を打ち出していました。特に、「コロンブス記念灯台」は最も話題になっていた建設計画でした。最近のWEBで見ると、コロンブス記念灯台は立派に完成され、巨大な十字架を上空の雲に投影して観光の目玉になっているようです。また、主要道路の交差点は立体交差化されていると聞きました。当時は首都でも立体交差は無く、円形のロータリーが市内各所にあって中央のモニュメントが風情を醸し出していました。
■ドミニカ共和国はカリブ海に浮かぶヒスパニョーラ島をハイチと分け合っています。陽気な人々とダンス「メレンゲ」とサトウキビ酒「ロン」の国でした。当時は、1日に6〜7回は電気が切れるような停電の多い国でした。
■日本の旅行代理店で、「ドミニカ」について問い合わせた時、ドミニカ国の資料で説明をされていることに気づかないようなありさまでした。ドミニカという国は、ドミニカ共和国とドミニカ国という別々の国があるのでした。また、カリブ島嶼国では、中南米と違って、スペイン語国がドミニカ共和国とキューバの2国だけであり、フランス語国がハイチ1国で、残り10国は全て英語国です。
■首都サントドミンゴの旧市街地にはオサマ砦がありました。オサマ川の右岸からサントドミンゴ港を見下ろせる位置にあるため、砦からの眺めはなかなか良い。砦の中をくまなく歩いてみると、雑草が繁茂して観光客もあまり来ないところにたくさんの大砲を見つけました。
サントドミンゴはコロンブスの弟バルトロメが中南米で最初に造った街でヌエバ・イサベラと命名されていました。サントドミンゴには新大陸で最初の大聖堂、総合病院、大学などがあります。旧市街は1990年にユネスコの世界遺産に「サント・ドミンゴ植民都市」として登録されました。

■エンリキージョ湖■
ドミニカの西部、ハイチとの国境に近いところにエンリキージョ湖がありました。一帯は乾燥地で、湖面は海面−40mに位置する塩湖です。湖の周辺にはサンゴのかけらが見られました。
カリブ海の北部の島嶼地域には、かつて温和で優しい気質のタイノ族とアラワク族が住んでいました。しかし、コロンブスが漂着したころのヒスパニョーラ島は、南米大陸から小アンチル諸島を北上して来た好戦的で喰人の習慣があると言われるカリブ族が征服していました。右の写真はタイノ族が残したと言われる岩絵で、エンリキージョ湖を見下ろす岩場にありました。

■カサデカンポ=直訳すると「田舎の家」「別荘」とでも言うのでしょう。ラ・ロマーナにある、アメリカのニューヨーカー達の避寒地リゾートです。たくさんのリゾート施設の中でゴルフ場の写真しか手元にありませんでした。
右の写真は子ども連れでフェアウェイを歩いているところです。日本のゴルフ場のように企業戦士達がせっせとプレーを消化していくのとは違い、夫婦二人だけでのんびりとプレーしていました。前を行く組も年輩のご夫婦で、ゆっくりボールを打っていくので、私たちも一人で2個のボールを打ったり、子どもにカートを運転させたり、きれいなゴルフ場を堪能できました。時折フェアウェイの横をランニングしている人たちに遇いましたが、別荘に滞在する人のようでした。
このゴルフコースは、海沿いに配置されているため、海越えのティーショットが爽快でしたが、さらに驚いたことに、ジェット機が着陸する本格的な滑走路越えのティーショットもありました。
■ドミニカの海岸線は変化がありました。首都サントドミンゴでは岩場で、オサマ川の濁った水が流されてきていてカリブの青い海という感じはしませんでした。それでも、海岸の岩場の上にはテラスと木陰が整備され、夕涼みする人々の憩いの場になっていました。海水浴場のボカチカでは砂浜近くまで車で乗り付けてバーベキューや砂遊びを楽しめました。サントドミンゴからラロマーナの道沿いの岩場はほとんどが隆起した珊瑚礁なので、浸食を受けて複雑な洞窟のようになって波が地表に吹き上がるカ所が至るところで見られました。

■ドミニカの人々はオシャレで人なつっこくて屈託のない感じでした。日曜日に地方の砂利道を走っていると、男性は白のワイシャツに黒のズボンに革靴、女性はカラフルなワンピースにハイヒールを履いて歩いている姿によく出くわしました。日曜の礼拝に行く人たちのようでした。平日でも、朝と夕の2回はシャワーを使っているようで、仕事から帰ってシャワーを浴びてから夕食やパーティーに出かけるパターンのようです。
首都の大きな交差点では、停車した車のフロントガラスを拭きに来る子どもが先を争ってやってきました。町中の公園などでは靴磨きの少年が客をさがして声をかけてきました。人混みを歩いていると、「チーノ!」と声を掛けられます。中国人という意味ですが、「おい!そこの中国人!返事して見ろ!」といったトゲのある呼びかけでした。どちらかというと、都市部で薄汚い男の子が「チーノ」と言いながらちょっかいを出してきていたような気がします。
アパートで、女中を1人雇っていましたが、主人がゴミ出しや、庭先を掃いていると、「ケチ」だと言われます。左腕を曲げて肘を突き出し、その肘を右の拳でトントンと叩く仕草で、「ケチ」を表します。好意を持っていないことは明らかです。土曜・日曜に小売店が開いている店は、たいていアラブ系か華僑系の店主のようでした。一生懸命働いてお金を貯め、商売に精を出すのは美徳とは思われないようでした。金持ちは貧乏人に施しをすべきという感覚があるように思いました。
■ドミニカと言えば「メレンゲ」
サントドミンゴの海岸通り「マレコン」に面したカフェでは、四六時中メレンゲの大音響が鳴り響いていました。タダの通りすがりの兄チャンかカフェテリアの店員かが、でっかいスピーカーに被さるようにメレンゲのステップを一心不乱に踏んでいました。
ここの写真は、ある会社のパーティーで調子に乗ってメレンゲの真似事で悦に入っている若き日のpoco@管理人の醜態です。ドミニカの女性たちは、リズムもタイミングも合わないのに、イヤな顔せずに付き合ってくれたものです。肌の色が多彩なことに気づかれると思います。白い人、モレーナ、メスティーサなど、徹底的に混血が行き届いているといった感じです。混血が行き届いているためか、肌の色で差別する感覚が無いと聞きました。
皆さん愛嬌たっぷりお茶目で小顔の細面なので、たいへん魅力的な女性ばかりでした。
(ここの写真はテクスチャ加工しています m(_"_)m )
■ドミニカ共和国で聞きかじったことメモ
ラリマール 1974年にドミニカ共和国の海岸で見つけられた美しいブルーの石。愛娘の名「ラリサ」にスペイン語の海「マール」を付けて命名したという。ドミニカ共和国でしか産出しないと聞きました。発見者の奥さんは日本人移民なので、日本人移民の間で特に人気があるように思えました。
琥珀 ドミニカ共和国から帰国した直後の1992年にスピルバーグ監督の映画「ジュラシックパーク」が大きな話題になった。映画はドミニカ共和国産の琥珀に閉じこめられた蚊の体内に残った恐竜のDNAを使って恐竜を再生するというストーリーである。我が家でも虫入りの琥珀を持って帰ってきていたので、さっそく皆で念入りに見つめ直したものであります。

 
野球 アメリカ大リーグにはドミニカ共和国出身の選手が30名近くいると聞きました。しかも、その選手たちのほとんどは「サンペドロデマコリス」の出身であると聞きました。サンペドロデマコリスはサントドミンゴの東にある港町です。ラロマーナへ行くときに通るのですが、確かに、道ばたの空き地では必ず子どもたちがボールと棒(バットではなかった)を持って遊んでいました。
そうゆうわけで、広島カープがサンペドロデマコリスにベースボールスクールを造るため来ドしました。WEBで調べてみると1990年秋に開校したようです。
カジノ サントドミンゴの5つ星ホテルには必ず「カジノ」がありました。ルーレットやブラックジャックでスペイン語の数字を覚えるのに役立ちました。
カオバ ヒスパニョーラ島はかつては「カオバ」で覆われていたそうです。カオバというのはマホガニーのことで、高級家具に使われる良質の木材となります。西インド諸島すなわちドミニカ共和国あたりが原産地だという説もありますが、現在では切り尽くされて、ランドマーク的に残された大木を見かける程度です。カオバの取引のためドミニカ共和国に来たという日本人の方もいるくらい、かつては大量に輸出されていたようです。
ポージョ 「チチャロン・デ・ポージョ」「アロス・コン・ポージョ」「ポージョ・カルボン」など大変お世話になった食べ物です。「ポージョ」とは鶏肉のことです。これらは、鶏の「唐揚げ」、「鶏飯」、「炭焼き」の呼び名です。
■ドミニカ共和国の概要
面 積
人 口
首 都
人 種
言 語
宗 教
一人当たりGNI
48,442km2(九州に高知県を併せた広さ)
約823万人(02年:国家統計局)
サント・ドミンゴ(人口 91.6万人、02年:国家統計局)
混血72.9%、ヨーロッパ系16.1%、アフリカ系10.9%、その他0.1%
スペイン語
カトリック
2,320米ドル(2002年:世銀)
■ドミニカ共和国の略史
1492年
1697年
1795年
1804年
1814年
1822年
1844年
1861年
1916年
1930年
1961年
1963年
1965年
1966年
1978年
1982年
1986年
1996年
2000年
2004年
コロンブスによるヒスパニョーラ島発見
島の西側がフランス領となる(リスウィク平和条約)。
仏西戦争の結果全島がフランス領となる。
ハイチとしてフランスより独立。
パリ条約で東側はスペイン領となる。
ハイチ軍による占領(〜44年)
ハイチから独立 (初代大統領ペドロ・サンタアナ)
〜65年 スペインに合併。
〜24年 米国による軍事占領。
〜61年 トルヒーリョによる独裁
トルヒーリョ暗殺
総選挙を経てボッシュ大統領就任
政府軍と反政府軍両派間で武力衝突が発生(米国等派兵)。
バラゲール大統領就任(1970年、1974年再任)
グスマン大統領就任
ブランコ大統領就任
バラゲール大統領就任(1990年、1994年再任)
フェルナンデス大統領就任
メヒーア大統領就任
フェルナンデス大統領就任
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