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カンボジア王国 Kingdom of Cambodia |
■1993年10月にカンボジアのプノンペンに行ったときの写真です。 1993年10月は国連平和維持活動「カンボジア暫定機構(UNTAC)1992/3〜1993/9」が活動を終えようとするころでした。 |
2004年9月記述 |
■空港到着■ プノンペンの空港に着いてタラップを降り、滑走路を歩いて空港ターミナルに向かった。ターミナルビルの手前の滑走路に、作業員が荷車からスーツケースを降ろして乱雑に並べていた。こんな露天で荷物を放り出すなんて、と思いながら自分の荷物を押して建物に入った。ドアを入ったフロアーでは、一昔前のスーパーのレジスターを前に制服の係官が乗客たちとワイワイやっている。イミグレーションを通る直前で査証を売っているのであった。なんだかやっぱり大変なところにやって来たんじゃないかという、強烈な第一印象でした。 |
■人々■ 政権による凄まじい狂気の時代をくぐり抜けてきた人々の表情はすさんでいるのではないかと、どこか心の中で決めていたと思う。 左の写真はいわゆる「キリングフィールド」で撮影したものですが、頭蓋骨がずらりと並べられた慰霊塔のすぐ横でこんなに穏やかな表情の子どもたちに出会うとは思いもよらない経験でした。 |
■メコン川遠望■ ホテルの窓から見えたメコン川です。 当時の最高級ホテルにはやはりプールが備えられていました。紛争後ということや、カンボジア社会の状況とはかけ離れた世界でした。 メコン川はトンレサップ川が合流して2色に分かれていました。対岸には集落が見え、たくさんの舟が行き来していました。舟は少しずつ雰囲気は違いますが、船体自体は大きさなど同じ基本モデルがあるように見えました。 |
■郊外の道路■ やはり交通の主役はバイクのようですが、バスやトラックも人や荷物を満載して頑張っていました。下中の写真のバスは窓から荷物がはみ出し、人もはみ出し、傾いて走っていました。どのバスも屋根の上に人が乗っていました。おそらく、車内より快適なんだろうなと想像してしまいます。 |
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カンボジア王国について | |
■カンボジア基礎データ | |
面積 人口 首都 民族 言語 宗教 政体 元首 国会 通貨 一人当たりGNP |
18.1万km2(日本の約1/2弱) 11.4百万人(98年3月) プノンペン カンボジア人(9割以上がクメール系) カンボジア語(公用語) 仏教(上座部仏教) 立憲君主制 ノロドム・シハヌーク国王(1993.9.24即位) 二院制(国民議会及び上院) リエル(1米ドル=3,880リエル、2000年) 253米ドル(2000年) |
■カンボジアの略史 | |
1-6世紀 6-8世紀 9-15世紀 1884年 1941年 1945年 1953年 1970年 1975年 1991年 1992年 1993年 |
「フーナン王国」 「チェンラ王国」 一時ジャワ王国の支配 「アンコール王朝」 フランスの保護国に(フランスがインドシナ半島を植民地化) -45年 日本軍の仏印進駐 8月 フランスによる間接統治再開 11月9日「カンボジア王国」独立(シアヌーク国王) 「クメール共和国」発足(ロン・ノル国防相によるクーデター) 4月17日インドシナ共産党を中核とする連合勢力がプノンペン制圧 「民主カンプチア国」 ポル・ポト率いるクメールルージュ(インドシナ共産党の一派)が政権掌握 (都市住民の農村下放、大量虐殺) 親ベトナム政府軍とクメールルージュ主体の3派連合との内戦 パリ和平協定成立 3月-93年9月国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC) 9月21日「カンボジア王国憲法」制定(立憲君主制、民主主義、自由市場経済) |
■国連カンボジア暫定機構 UNTAC | |
1992年2月28日安全保障理事会が決議745によって国連カンボジア暫定機構を設置 活動期間は1992年3月から1993年9月まで 主な任務は、カンボディア各派の停戦・武装解除の監視、選挙の準備・実施、行政の管理、難民帰還の支援、復旧の支援 |
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・日本の参加 | 停戦監視要員として、第1次(1992年9月〜1993年3月)、第2次(1993年3月〜9月)に各8名の自衛官を派遣 選挙要員として、1993年5月23日〜28日、国家公務員5名、地方公務員13名、民間人23名、計41名を派遣 文民警察要員として、1992年10月〜1993年7月、75名の文民警察要員を派遣 施設部隊として、第1次(1992年9月〜1993年4月、第2次(1993年3月〜9月)に陸上自衛隊各600名を派遣 航空自衛隊は6機のC-130H型輸送機 海上自衛隊は輸送艦2隻と補給艦1隻 |
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