■青森県写真集■
<三沢航空科学館> 青森県三沢市 2007年 12月 16日撮影
世界初の太平洋無着陸横断飛行の出発地になった三沢市には航空機をベースにした航空科学館がある。平成15年8月開館。
館内には青森県に縁のある航空史上の傑作が展示・紹介されている。
青森県に縁のある航空史上の出来事
 (1)日本初の民間プロ飛行士・白戸榮之助氏は五所川原市金木町出身。
 (2)航空機による周回航続距離の世界記録を樹立した航研機の設計者、工場長、パイロットとして青森県出身者が関与。
 (3)第二次世界大戦後初の国産航空機YS−11の技術委員長・木村秀政博士の先祖は五戸代官所の代官。
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太平洋を無着陸で飛び越えて行った二人の銅像が出迎えるエントランス。
1931年(昭和6年)10月、米国人飛行家クライド・パングボーン(35才)とヒュー・ハーンドン(26才)は、単発単葉機ミス・ビードル号を操縦して、三沢市淋代海岸を離陸、太平洋上を無着陸で飛行し、米国ワシントン州ウェナッチに胴体着陸した。
太平洋を無着陸で横断した初の快挙は、飛行時間41時間10分、飛行距離約7,847kmだった。
出発までの間、砂地をならして平らにした滑走路に杉板を敷き並べて滑走を容易にしたり、燃料の輸送と積み込み、機体の整備、宿泊の世話など、三沢の住民達は協力を惜しまなかった。

ミス・ビードル号
 ・アメリカ・べランカ社製の単発5人乗りの旅客機の後部座席と機体底部を燃料タンクに改造。
 ・全幅14.122m、全長8.420m、翌面積25.4平方メートル、エンジン出力450HP
 ・燃料約3,600L(ドラム缶18本分)を積み、約1,800m滑走して離陸。
 ・離陸後、車輪を切り離し、空気抵抗を減らして航行。

青森のりんごとのエピソード
ミス・ビードル号が出発するとき、三沢村民の小比類巻チヨさんが紅玉りんご数十個を手渡した。
困難な飛行中にあってこの青森りんごは二人を励まし、パングボーンは着陸を見守っていた母親に青森りんごを手渡したという。
お礼として、当時のウェナッチで評判のりんご品種であるリチャードデリシャスの果実を日本に送ったが、防疫上の理由で返送された。
この事情を知った青森県苹果試験場場長の須佐寅三郎氏は書簡を送り、1932年4月5日、穂木5本が送られてきた。
穂木は接ぎ木で増殖されてデリシャス系品種の改良に活用され、最近では2004年にあおり15号「星の金貨」が商標登録された。
1938年、航研機は航空機による周回航続距離の世界記録を樹立した。
周回飛行の概要
 ・千葉県銚子、群馬県太田、神奈川県平塚を結ぶ一周401.759kmの周回コース。
 ・千葉県木更津飛行場を1938年5月13日4:55に離陸、15日19:18に帰着。滞空時間62時間22分49秒。
 ・周回航続距離の世界記録11,651.011km、10,000kmコース速度の世界記録186.197km/時を樹立。
東京帝国大学航空研究所で岩本周平教授のもと五戸町出身の木村秀政らが設計。
東京瓦斯電気工業株式会社(のちの日野自動車)の大森工場で大湊出身の工藤富治が航空機機体工場長として製作。
弘前市出身の藤田雄蔵少佐が操縦。

航研機
 ・全幅27.93m、全長15.06m、全高3.6m、主翼面積87.3平方メートル、エンジン出力800HP
 ・機体重量4,225kg・離陸最大重量9,216kg
 ・最大速度245km/時、巡航速度196km/時
 ・乗員3名
第二次世界大戦後、日本は航空機の開発・製造・研究を禁止されていたが、1952年に禁が解かれた。
1957年、五戸町出身の木村秀政博士を技術委員長とした(財)輸送機設計研究協会が設立され、設計に着手。
1962年、試作1号機の初飛行。1965年、国産実用機として国内線に就航。
1973年(昭和48年)まで、182機が生産された。
YS-11の名は、輸送機設計研究協会の輸送の「Y」、設計の「S」、エンジンと翼の設計で、それぞれ1番目の案を採用したことから「11」(いちいち)と命名された。

YS−11
 ・全幅32m、全長26.30m、全高8.98m、主翼面積94.8平方メートル、 エンジン出力2,400軸馬力×2
 ・機体重量15,460kg、離陸最大重量24,500kg
 ・最大巡航速度474km/時、実用上昇限度6,100m、航続距離1,280km
 ・乗員2名、乗客64名
 ・初飛行:1962年(昭和37年)8月30日
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