<弘前ねぷた祭り> 青森県弘前市 2007年 8月 4日撮影 | |
■弘前のねぷた祭りを見てきました。 ■土手町を運行するねぷたは意外と闊達な動きもある練り歩きでした。 |
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■扇ねぷたが土手町を続々と来る。 | |
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■扇ねぷたがやって来た。 | |
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■津軽情っ張り大太鼓。 | |
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■人形ねぷた。 | |
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■担ぎねぷた。 |
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■扇ねぷたの送り絵。 |
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■女衆の粋な担ぎねぷた。 | |
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■大型の扇ねぷた。 | |
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■女衆が活躍する囃子組。 |
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■静かな風情のねぷた。 |
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■人形ねぷた。 | |
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■人形ねぷたにも送り絵。 | |
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■交差点でぐるぐる回されるねぷた。 |
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■大型ねぷた。 |
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■女衆が大活躍。 | |
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■大型ねぷたは厳かさが際立つ。 | |
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■送り絵は独特の雰囲気を持つ。 |
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■子どもたちも参加しています。 |
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■大型ねぷた。 | |
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■運行を終えて帰って行くねぷた。 | |
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■運行を終えて。 |
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■ねぶたの由来 身についた罪や穢(けが)れを川や海の水で洗い清める禊ぎ(みそぎ)を目的とした行事が起源 農作業が忙しく暑さの厳しい夏に襲ってくる睡魔を追い払う「眠り流し」に変化 江戸時代、七夕祭りの松明流しや精霊流し、眠り流し、盆燈篭などが変化した。 簡素な角燈籠→人形の「組みネプタ」→扇型のネプタ、へと形態変化 「流し」から「運行」や「練り歩き」を楽しむ形に変化しつつある。 眠り流し→ねむた流し→ねむた→ねぷた、ねぶた 「佞武多」、「禰ふた」の字をあてることもある。 |
■変遷 文禄2年(1593)藩祖為信公が京都の盂蘭盆会での趣向として二間 四方の大燈篭を作らせたとの伝承。 享保7年(1722)「御国日記(津軽藩日記)」:五代藩主津軽信寿公が「称むた流」を高覧したとある。 安永7年(1778)「奥民図彙(おうみんずい)」:「子ムタ祭の図」で七夕祭りと説明。 天明6年(1786)「山田家記」:「七夕祭り、例年の通り賑々しく」とある 天明8年(1788)「子ムタ祭之図」:七夕祭、織姫祭、二星祭などの文字が記されている。大きなものは四〜五間。担ぎネプタ。ろうそく照明。 寛政5年(1793)「奥民図彙」に縦長の燈籠の絵。 1840年頃弘前市の史書:高さ9m以上のネプタが一般的であり、天保12年(1831)に黒石藩で高さ14〜16mのネプタが運行されたと記述。 文久(1861-4)「津軽年中風俗画巻(平尾魯仙画)」:「見送り」「高欄」らしきものが描かれ「組ネプタ」の萌芽が見られる。 天保2年(1831)〜明治4年(1871) 「分銅組若者日記」:「七夕祭」の名称でネプタ行事、ネプタ燈籠の絵柄100点を記録。担ぎネプタ。最大9間(16m)。 明治2年(1869)「伊藤善五郎家文書」:青森市浜町町会では高さ約20メートルのネプタ「宝船」の百人担ぎが行われたと記録。 明治6年(1873)菱田重喜県令:ねぶた禁止令を発令。以後9年間禁止。 明治〜大正:「開き」が考案され、「高欄」と「額」を改良した「組ネプタ」が完成。「額」の上に「開き」をつけ扇と結合した「扇ネプタ」が登場。 昭和〜平成:バッテリーや発電機を使用して、照明はろうそくから電気に移行。回転装置や昇降装置が登場。 昭和45年(1970):大阪万国博覧会にねぶた出展。 昭和55年(1980):弘前ネプタと青森ねぶたが重要無形民俗文化財の指定を受ける。 |
■意味深長 津軽藩の藩祖津軽為信公の幼名が「扇」であったことと「扇ネプタ」は関係ありやなしや!? 「漢雲」は右から読んで「うんかん」となり、中国での「天の川」を意味する。ネプタ祭りが「七夕祭り」から発展した名残か!? ネプタの下にある皿のような部分を「開き」と呼ぶ。津軽藩主津軽家の家紋が「牡丹」であることと、「開き」に描かれる「牡丹」の花は関連がありやなしや!? |
■こぼれ話し 明治4年、弘前で五所川原ネプタと弘前ネプタが大喧嘩をしたそうな。 明治16年(1888)、ネプタの高さ一丈八尺(約5.4メートル)以上から罰金を課すとの通達があったそうな。 五所川原ネプタは、大正時代には高さ約20メートルもあり、隣町の金木町からも見えたそうな。 |
■ホントの話?? 坂上田村麻呂が蝦夷と戦った時、出陣で弘前の扇ネプタが使い、凱旋で青森の人形ねぶたを使ったと言う人あり。 そのためか、弘前ネプタは粛々と厳かな雰囲気で、青森ねぶたは勝利に酔って大はしゃぎするような「跳人」を引き連れている。 |
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