<ねぶた> 青森県青森市 2006年 8月6日撮影 |
■五所川原の立佞武多に続いて青森の「ねぶた」を堪能しました。 ■青森のねぶたは立佞武多と比べて小ぶりですが、広い道路の上をうねるように蛇行したり観客席に向かって見得を切ったりする動きに、沿道を埋めた観客が大きくどよめき歓声を上げる雰囲気はなかなか良いものでした。 |
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■ねぶたの大きさは、縦5m、横9m、奥行き7m。 |
■一人の指揮者の笛と扇子に操られてねぶたが踊ります。 |
■観客達はこっちへ来いとねぶたを呼びます。 |
■笛と手振鉦の囃子方。 |
■跳人の後ろにねぶたが迫ります。 |
■正統派(?)の跳人はゆったり大きく跳ねていました。 |
■ねぶたを踊らせる縁の下の力持ち。 |
■2時間(19:10〜21:00)の運行が終わって、去っていく。夏を惜しむように。 |
■ねぶたの由来 身についた罪や穢(けが)れを川や海の水で洗い清める禊ぎ(みそぎ)を目的とした行事が起源 農作業が忙しく暑さの厳しい夏に襲ってくる睡魔を追い払う「眠り流し」に変化 江戸時代、七夕祭りの松明流しや精霊流し、眠り流し、盆燈篭などが変化した。 簡素な角燈籠→人形の「組みネプタ」→扇型のネプタ、へと形態変化 「流し」から「運行」や「練り歩き」を楽しむ形に変化しつつある。 |
■変遷 文禄2年(1593)藩祖為信公が京都の盂蘭盆会での趣向として二間 四方の大燈篭を作らせたとの伝承。 享保7年(1722)「御国日記(津軽藩日記)」:五代藩主津軽信寿公が「称むた流」を高覧したとある。 安永7年(1778)「奥民図彙(おうみんずい)」:「子ムタ祭の図」で七夕祭りと説明。 天明6年(1786)「山田家記」:「七夕祭り、例年の通り賑々しく」とある 天明8年(1788)「子ムタ祭之図」:七夕祭、織姫祭、二星祭などの文字が記されている。大きなものは四〜五間。担ぎネプタ。ろうそく照明。 寛政5年(1793)「奥民図彙」に縦長の燈籠の絵。 1840年頃弘前市の史書:高さ9m以上のネプタが一般的であり、天保12年(1831)に黒石藩で高さ14〜16mのネプタが運行されたと記述。 文久(1861-4)「津軽年中風俗画巻(平尾魯仙画)」:「見送り」「高欄」らしきものが描かれ「組ネプタ」の萌芽が見られる。 天保2年(1831)〜明治4年(1871) 「分銅組若者日記」:「七夕祭」の名称でネプタ行事、ネプタ燈籠の絵柄100点を記録。担ぎネプタ。最大9間(16m)。 明治2年(1869)「伊藤善五郎家文書」:青森市浜町町会では高さ約20メートルのネプタ「宝船」の百人担ぎが行われたと記録。 明治6年(1873)菱田重喜県令:ねぶた禁止令を発令。以後9年間禁止。 明治〜大正:「開き」が考案され、「高欄」と「額」を改良した「組ネプタ」が完成。「額」の上に「開き」をつけ扇と結合した「扇ネプタ」が登場。 昭和〜平成:バッテリーや発電機を使用して、照明はろうそくから電気に移行。回転装置や昇降装置が登場。 昭和45年(1970):大阪万国博覧会にねぶた出展。 昭和55年(1980):弘前ネプタと青森ねぶたが重要無形民俗文化財の指定を受ける。 |
■意味深長 津軽藩の藩祖津軽為信公の幼名が「扇」であったことと「扇ネプタ」は関係ありやなしや!? 「漢雲」は右から読んで「うんかん」となり、中国での「天の川」を意味する。ネプタ祭りが「七夕祭り」から発展した名残か!? ネプタの下にある皿のような部分を「開き」と呼ぶ。津軽藩主津軽家の家紋が「牡丹」であることと、「開き」に描かれる「牡丹」の花は関連がありやなしや!? |
■こぼれ話し 明治4年、弘前で五所川原ネプタと弘前ネプタが大喧嘩をしたそうな。 明治16年(1888)、ネプタの高さ一丈八尺(約5.4メートル)以上から罰金を課すとの通達があったそうな。 五所川原ネプタは、大正時代には高さ約20メートルもあり、隣町の金木町からも見えたそうな。 |
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