<立佞武多、タチネプタ> 青森県五所川原市 2006年 8月4日撮影
五所川原の立佞武多(たちねぷた)を見に行きました。

平成8年に80年ぶりに復活させたという「立佞武多」。
大正時代に電気の普及によって一度は姿を消した立佞武多であるが、平成10年には電線を埋設して市内練り歩きをも復活させた。
平成8年の復活と岩木川河原での運行が人々に与えた感動の大きさが伝わってくる。

高さ20m以上の巨人に見下ろされるのはなかなかの迫力でした。
囃子方や踊り手、跳人には女性や子供が多いという感じを受けました。
女性は胸にサラシを巻き、衣装も艶のある品の良い生地が使われているようでした。
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まず、直径3.2m、長さ3.6mの「あすなろ大太鼓」がやって来ました。
人々をはるかに見下ろす人形ネプタがやって来ました。
近くで見上げる人形ネプタは、眼光鋭く見下ろしています。
「手振鉦」通称「ジャガネ」や横笛を演る囃子方。
囃子方と観客とは一体。
跳人と囃子方が渾然
吉幾三さんも来てました。
岩木山ミニ知識
■立佞武多(タチネプタ)
明治末から大正時代にかけて、津軽半島と平野部を結ぶ交易の要衝として繁栄した商都・五所川原市では、経済力を持った町衆・旦那衆の力の象徴として、高さ20mを越える巨大なネプタが製作された。
電気の普及により高さ5mほどの低いネプタへと変化していった。
平成8年(1996)「立ちネプタ復元の会」が高さ20メートル、重さ7トンの巨大ネプタを製作。7月に岩木川河川敷で数十メートル運行し、「立佞武多」と命名。
■ネプタの由来
身についた罪や穢(けが)れを川や海の水で洗い清める禊ぎ(みそぎ)を目的とした行事が起源
農作業が忙しく暑さの厳しい夏に襲ってくる睡魔を追い払う「眠り流し」に変化
江戸時代、七夕祭り松明流し精霊流し眠り流し盆燈篭などが変化した。
簡素な角燈籠→人形の「組みネプタ」→扇型のネプタ、へと形態変化
流し」から「運行」や「練り歩き」を楽しむ形に変化しつつある。
■変遷
文禄2年(1593)藩祖為信公が京都の盂蘭盆会での趣向として二間 四方の大燈篭を作らせたとの伝承。
享保7年(1722)「御国日記津軽藩日記)」:五代藩主津軽信寿公が「称むた流」を高覧したとある。
安永7年(1778)「奥民図彙(おうみんずい)」:「子ムタ祭の図」で七夕祭りと説明。
天明6年(1786)「山田家記」:「七夕祭り、例年の通り賑々しく」とある
天明8年(1788)「子ムタ祭之図」:七夕祭、織姫祭、二星祭などの文字が記されている。大きなものは四〜五間。担ぎネプタ。ろうそく照明。
寛政5年(1793)「奥民図彙」に縦長の燈籠の絵。
1840年頃弘前市の史書:高さ9m以上のネプタが一般的であり、天保12年(1831)に黒石藩で高さ14〜16mのネプタが運行されたと記述。
文久(1861-4)「津軽年中風俗画巻(平尾魯仙画)」:「見送り」「高欄」らしきものが描かれ「組ネプタ」の萌芽が見られる。
天保2年(1831)〜明治4年(1871) 「分銅組若者日記」:「七夕祭」の名称でネプタ行事、ネプタ燈籠の絵柄100点を記録。担ぎネプタ。最大9間(16m)。
明治2年(1874)「伊藤善五郎家文書」:青森市浜町町会では高さ約20メートルのネプタの百人担ぎが行われたと記録。
明治〜大正:「開き」が考案され、「高欄」と「額」を改良した「組ネプタ」が完成。「額」の上に「開き」をつけ扇と結合した「扇ネプタ」が登場。
昭和〜平成:バッテリーや発電機を使用して、照明はろうそくから電気に移行。回転装置や昇降装置が登場。
昭和55年(1980):弘前ネプタ青森ねぶた重要無形民俗文化財の指定を受ける。
■意味深長
津軽藩の藩祖津軽為信公の幼名が「」であったことと「扇ネプタ」は関係ありやなしや!?
漢雲」は右から読んで「うんかん」となり、中国での「天の川」を意味する。ネプタ祭りが「七夕祭り」から発展した名残か!?
ネプタの下にある皿のような部分を「開き」と呼ぶ。津軽藩主津軽家の家紋が「牡丹」であることと、「開き」に描かれる「牡丹」の花は関連がありやなしや!?
■こぼれ話し
明治4年、弘前で五所川原ネプタと弘前ネプタが大喧嘩をしたそうな。
明治16年(1888)、ネプタの高さ一丈八尺(約5.4メートル)以上から罰金を課すとの通達があったそうな。
五所川原ネプタは、大正時代には高さ約20メートルもあり、隣町の金木町からも見えたそうな。
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