■まず、直径3.2m、長さ3.6mの「あすなろ大太鼓」がやって来ました。 |
■人々をはるかに見下ろす人形ネプタがやって来ました。 |
■近くで見上げる人形ネプタは、眼光鋭く見下ろしています。 |
■「手振鉦」通称「ジャガネ」や横笛を演る囃子方。 |
■囃子方と観客とは一体。 |
■跳人と囃子方が渾然 |
■吉幾三さんも来てました。 |
■立佞武多(タチネプタ) 明治末から大正時代にかけて、津軽半島と平野部を結ぶ交易の要衝として繁栄した商都・五所川原市では、経済力を持った町衆・旦那衆の力の象徴として、高さ20mを越える巨大なネプタが製作された。 電気の普及により高さ5mほどの低いネプタへと変化していった。 平成8年(1996)「立ちネプタ復元の会」が高さ20メートル、重さ7トンの巨大ネプタを製作。7月に岩木川河川敷で数十メートル運行し、「立佞武多」と命名。 |
■ネプタの由来 身についた罪や穢(けが)れを川や海の水で洗い清める禊ぎ(みそぎ)を目的とした行事が起源 農作業が忙しく暑さの厳しい夏に襲ってくる睡魔を追い払う「眠り流し」に変化 江戸時代、七夕祭りの松明流しや精霊流し、眠り流し、盆燈篭などが変化した。 簡素な角燈籠→人形の「組みネプタ」→扇型のネプタ、へと形態変化 「流し」から「運行」や「練り歩き」を楽しむ形に変化しつつある。 |
■変遷 文禄2年(1593)藩祖為信公が京都の盂蘭盆会での趣向として二間 四方の大燈篭を作らせたとの伝承。 享保7年(1722)「御国日記(津軽藩日記)」:五代藩主津軽信寿公が「称むた流」を高覧したとある。 安永7年(1778)「奥民図彙(おうみんずい)」:「子ムタ祭の図」で七夕祭りと説明。 天明6年(1786)「山田家記」:「七夕祭り、例年の通り賑々しく」とある 天明8年(1788)「子ムタ祭之図」:七夕祭、織姫祭、二星祭などの文字が記されている。大きなものは四〜五間。担ぎネプタ。ろうそく照明。 寛政5年(1793)「奥民図彙」に縦長の燈籠の絵。 1840年頃弘前市の史書:高さ9m以上のネプタが一般的であり、天保12年(1831)に黒石藩で高さ14〜16mのネプタが運行されたと記述。 文久(1861-4)「津軽年中風俗画巻(平尾魯仙画)」:「見送り」「高欄」らしきものが描かれ「組ネプタ」の萌芽が見られる。 天保2年(1831)〜明治4年(1871) 「分銅組若者日記」:「七夕祭」の名称でネプタ行事、ネプタ燈籠の絵柄100点を記録。担ぎネプタ。最大9間(16m)。 明治2年(1874)「伊藤善五郎家文書」:青森市浜町町会では高さ約20メートルのネプタの百人担ぎが行われたと記録。 明治〜大正:「開き」が考案され、「高欄」と「額」を改良した「組ネプタ」が完成。「額」の上に「開き」をつけ扇と結合した「扇ネプタ」が登場。 昭和〜平成:バッテリーや発電機を使用して、照明はろうそくから電気に移行。回転装置や昇降装置が登場。 昭和55年(1980):弘前ネプタと青森ねぶたが重要無形民俗文化財の指定を受ける。 |
■意味深長 津軽藩の藩祖津軽為信公の幼名が「扇」であったことと「扇ネプタ」は関係ありやなしや!? 「漢雲」は右から読んで「うんかん」となり、中国での「天の川」を意味する。ネプタ祭りが「七夕祭り」から発展した名残か!? ネプタの下にある皿のような部分を「開き」と呼ぶ。津軽藩主津軽家の家紋が「牡丹」であることと、「開き」に描かれる「牡丹」の花は関連がありやなしや!? |
■こぼれ話し 明治4年、弘前で五所川原ネプタと弘前ネプタが大喧嘩をしたそうな。 明治16年(1888)、ネプタの高さ一丈八尺(約5.4メートル)以上から罰金を課すとの通達があったそうな。 五所川原ネプタは、大正時代には高さ約20メートルもあり、隣町の金木町からも見えたそうな。 |
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