■青森県写真集■ |
★ 青森県の 『 ネプタ、ねぶた 』 を集めたページです。青森市の「ねぶた」は別ページです。 ★ 2006年、2007年、2008年の3年間に撮影しました。 |
■まず、直径3.2m、長さ3.6mの「あすなろ大太鼓」がやって来ました。 |
■人々をはるかに見下ろす人形ネプタがやって来ました。 |
■近くで見上げる人形ネプタは、眼光鋭く見下ろしています。 |
■「手振鉦」通称「ジャガネ」や横笛を演る囃子方。 |
■囃子方と観客とは一体。 |
■跳人と囃子方が渾然 |
■吉幾三さんも来てました。 |
■立佞武多(タチネプタ) 明治末から大正時代にかけて、津軽半島と平野部を結ぶ交易の要衝として繁栄した商都・五所川原市では、経済力を持った町衆・旦那衆の力の象徴として、高さ20mを越える巨大なネプタが製作された。 電気の普及により高さ5mほどの低いネプタへと変化していった。 平成8年(1996)「立ちネプタ復元の会」が高さ20メートル、重さ7トンの巨大ネプタを製作。7月に岩木川河川敷で数十メートル運行し、「立佞武多」と命名。 |
■ネプタの由来 身についた罪や穢(けが)れを川や海の水で洗い清める禊ぎ(みそぎ)を目的とした行事が起源 農作業が忙しく暑さの厳しい夏に襲ってくる睡魔を追い払う「眠り流し」に変化 江戸時代、七夕祭りの松明流しや精霊流し、眠り流し、盆燈篭などが変化した。 簡素な角燈籠→人形の「組みネプタ」→扇型のネプタ、へと形態変化 「流し」から「運行」や「練り歩き」を楽しむ形に変化しつつある。 |
■変遷 文禄2年(1593)藩祖為信公が京都の盂蘭盆会での趣向として二間 四方の大燈篭を作らせたとの伝承。 享保7年(1722)「御国日記(津軽藩日記)」:五代藩主津軽信寿公が「称むた流」を高覧したとある。 安永7年(1778)「奥民図彙(おうみんずい)」:「子ムタ祭の図」で七夕祭りと説明。 天明6年(1786)「山田家記」:「七夕祭り、例年の通り賑々しく」とある 天明8年(1788)「子ムタ祭之図」:七夕祭、織姫祭、二星祭などの文字が記されている。大きなものは四〜五間。担ぎネプタ。ろうそく照明。 寛政5年(1793)「奥民図彙」に縦長の燈籠の絵。 1840年頃弘前市の史書:高さ9m以上のネプタが一般的であり、天保12年(1831)に黒石藩で高さ14〜16mのネプタが運行されたと記述。 文久(1861-4)「津軽年中風俗画巻(平尾魯仙画)」:「見送り」「高欄」らしきものが描かれ「組ネプタ」の萌芽が見られる。 天保2年(1831)〜明治4年(1871) 「分銅組若者日記」:「七夕祭」の名称でネプタ行事、ネプタ燈籠の絵柄100点を記録。担ぎネプタ。最大9間(16m)。 明治2年(1874)「伊藤善五郎家文書」:青森市浜町町会では高さ約20メートルのネプタの百人担ぎが行われたと記録。 明治〜大正:「開き」が考案され、「高欄」と「額」を改良した「組ネプタ」が完成。「額」の上に「開き」をつけ扇と結合した「扇ネプタ」が登場。 昭和〜平成:バッテリーや発電機を使用して、照明はろうそくから電気に移行。回転装置や昇降装置が登場。 昭和55年(1980):弘前ネプタと青森ねぶたが重要無形民俗文化財の指定を受ける。 |
■意味深長 津軽藩の藩祖津軽為信公の幼名が「扇」であったことと「扇ネプタ」は関係ありやなしや!? 「漢雲」は右から読んで「うんかん」となり、中国での「天の川」を意味する。ネプタ祭りが「七夕祭り」から発展した名残か!? ネプタの下にある皿のような部分を「開き」と呼ぶ。津軽藩主津軽家の家紋が「牡丹」であることと、「開き」に描かれる「牡丹」の花は関連がありやなしや!? |
■こぼれ話し 明治4年、弘前で五所川原ネプタと弘前ネプタが大喧嘩をしたそうな。 明治16年(1888)、ネプタの高さ一丈八尺(約5.4メートル)以上から罰金を課すとの通達があったそうな。 五所川原ネプタは、大正時代には高さ約20メートルもあり、隣町の金木町からも見えたそうな。 |
<黒石ねぷた> 青森県黒石市 2007年 8月 1日撮影 | |
■黒石市のねぷたは風情があって良いと聞いたので出かけてみた。 ■運行はほとんど終わりだったためか、しっとりしたお盆の行事といった雰囲気が漂っていた。 ■黒石ねぷたは7月30日から8月5日開催。 |
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■合同運行を終えたねぷたが帰って行く。 | |
■国道沿いの各家の玄関先には思い思いの灯ろうがしつらえられている。 |
■誰もいなくなったこみせ通りを一台のねぷたがやって来た。 | |
■角灯ろうの向こうをねぷたが行く。 | |
■ねぷたが通った後には角灯ろうだけが闇に浮かんでいた。 |
■こみせ通りの雰囲気。 | |
<弘前ねぷた祭り> 青森県弘前市 2007年 8月 4日撮影 | |
■弘前のねぷた祭りを見てきました。 ■土手町を運行するねぷたは意外と闊達な動きもある練り歩きでした。 |
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■扇ねぷたが土手町を続々と来る。 | |
■扇ねぷたがやって来た。 | |
■津軽情っ張り大太鼓。 | |
■人形ねぷた。 | |
■担ぎねぷた。 |
■扇ねぷたの送り絵。 |
■女衆の粋な担ぎねぷた。 | |
■大型の扇ねぷた。 | |
■女衆が活躍する囃子組。 |
■静かな風情のねぷた。 |
■人形ねぷた。 | |
■人形ねぷたにも送り絵。 | |
■交差点でぐるぐる回されるねぷた。 |
■大型ねぷた。 |
■女衆が大活躍。 | |
■大型ねぷたは厳かさが際立つ。 | |
■送り絵は独特の雰囲気を持つ。 |
■子どもたちも参加しています。 |
■大型ねぷた。 | |
■運行を終えて帰って行くねぷた。 | |
■運行を終えて。 |
■ねぶたの由来 身についた罪や穢(けが)れを川や海の水で洗い清める禊ぎ(みそぎ)を目的とした行事が起源 農作業が忙しく暑さの厳しい夏に襲ってくる睡魔を追い払う「眠り流し」に変化 江戸時代、七夕祭りの松明流しや精霊流し、眠り流し、盆燈篭などが変化した。 簡素な角燈籠→人形の「組みネプタ」→扇型のネプタ、へと形態変化 「流し」から「運行」や「練り歩き」を楽しむ形に変化しつつある。 眠り流し→ねむた流し→ねむた→ねぷた、ねぶた 「佞武多」、「禰ふた」の字をあてることもある。 |
■変遷 文禄2年(1593)藩祖為信公が京都の盂蘭盆会での趣向として二間 四方の大燈篭を作らせたとの伝承。 享保7年(1722)「御国日記(津軽藩日記)」:五代藩主津軽信寿公が「称むた流」を高覧したとある。 安永7年(1778)「奥民図彙(おうみんずい)」:「子ムタ祭の図」で七夕祭りと説明。 天明6年(1786)「山田家記」:「七夕祭り、例年の通り賑々しく」とある 天明8年(1788)「子ムタ祭之図」:七夕祭、織姫祭、二星祭などの文字が記されている。大きなものは四〜五間。担ぎネプタ。ろうそく照明。 寛政5年(1793)「奥民図彙」に縦長の燈籠の絵。 1840年頃弘前市の史書:高さ9m以上のネプタが一般的であり、天保12年(1831)に黒石藩で高さ14〜16mのネプタが運行されたと記述。 文久(1861-4)「津軽年中風俗画巻(平尾魯仙画)」:「見送り」「高欄」らしきものが描かれ「組ネプタ」の萌芽が見られる。 天保2年(1831)〜明治4年(1871) 「分銅組若者日記」:「七夕祭」の名称でネプタ行事、ネプタ燈籠の絵柄100点を記録。担ぎネプタ。最大9間(16m)。 明治2年(1869)「伊藤善五郎家文書」:青森市浜町町会では高さ約20メートルのネプタ「宝船」の百人担ぎが行われたと記録。 明治6年(1873)菱田重喜県令:ねぶた禁止令を発令。以後9年間禁止。 明治〜大正:「開き」が考案され、「高欄」と「額」を改良した「組ネプタ」が完成。「額」の上に「開き」をつけ扇と結合した「扇ネプタ」が登場。 昭和〜平成:バッテリーや発電機を使用して、照明はろうそくから電気に移行。回転装置や昇降装置が登場。 昭和45年(1970):大阪万国博覧会にねぶた出展。 昭和55年(1980):弘前ネプタと青森ねぶたが重要無形民俗文化財の指定を受ける。 |
■意味深長 津軽藩の藩祖津軽為信公の幼名が「扇」であったことと「扇ネプタ」は関係ありやなしや!? 「漢雲」は右から読んで「うんかん」となり、中国での「天の川」を意味する。ネプタ祭りが「七夕祭り」から発展した名残か!? ネプタの下にある皿のような部分を「開き」と呼ぶ。津軽藩主津軽家の家紋が「牡丹」であることと、「開き」に描かれる「牡丹」の花は関連がありやなしや!? |
■こぼれ話し 明治4年、弘前で五所川原ネプタと弘前ネプタが大喧嘩をしたそうな。 明治16年(1888)、ネプタの高さ一丈八尺(約5.4メートル)以上から罰金を課すとの通達があったそうな。 五所川原ネプタは、大正時代には高さ約20メートルもあり、隣町の金木町からも見えたそうな。 |
■ホントの話?? 坂上田村麻呂が蝦夷と戦った時、出陣で弘前の扇ネプタが使い、凱旋で青森の人形ねぶたを使ったと言う人あり。 そのためか、弘前ネプタは粛々と厳かな雰囲気で、青森ねぶたは勝利に酔って大はしゃぎするような「跳人」を引き連れている。 |
<立佞武多・五所川原> 青森県五所川原 2008年 8月 8日撮影 | |
■立佞武多(たちねぷた)の最終日は3基の大型立佞武多が一つの交差点で会合する。 |
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■立佞武多2基が入る格納庫が五所川原駅前にある。 | |
■駅前から立佞武多の館に向かう。 | |
■「不撓不屈」2008年製、「芽吹き心荒ぶる」2007年製、「絆」2006年製が立佞武多の館から出陣する。 |
■路地から立佞武多を眺めた。 |
■3基の大型立佞武多が会合した。 | |
■立佞武多の館に帰っていく大型立佞武多を見送る。 |
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